歴人マガジン

【今こそ評価したい】マムシを殺した男・斎藤義龍(高政)が、長生きしていたら?

信長を倒すべく、各勢力と手を組む

晴れて美濃国主となった義龍。その後、彼は近江の六角氏と同盟して西を固める一方、目ざわりな信長を滅ぼしてしまおうと目論んだ。信長には道三の娘、つまり自分の妹(帰蝶)が嫁いでいたが、そんなことは気にせず、徹底的に潰そうと考えたのだろう。

ちなみに、道三死後の帰蝶は、どうなってしまったのか、史料にはまったく記録がない。尾張と美濃が争うなか、どう過ごしていたのか。通例では敵国の姫君は処刑されたり、本国へ送り返される例もあった。彼女がいつ亡くなったのかも記録にはない。すべては歴史の闇のなかである。

さて、義龍は尾張の半分を支配していた岩倉織田家(織田信安)と手を組み、さらには織田信広(信長の兄)をけしかけて謀反を起こさせた。両名の存在は、信長を倒したい義龍にとっては好都合な盟約相手だった。

いっぽうの信長だが、先の織田信安、信広に加えて、弟の信勝および主家筋にあたる清須織田家(信友)とも対立していた。さらに東には今川氏の脅威もあって、四方敵だらけ、危機的状況に追い込まれていたのだ。この裏には、義龍の外交力の見事さも垣間見える。

とくに信長の実弟・信勝(信行とも呼ぶ)は、父・信秀の跡を受け、自身が「弾正忠家の当主である」と強く自負し、また彼を支持する家臣も多かった。のちに信長の重臣として活躍する柴田勝家、林秀貞なども当時は信勝を支持していたほどだ。

弘治2年(1556)8月には武力衝突に発展し「稲生(いのう)の戦い」が起きてしまう。この戦いに勝った信長だが、母・土田御前の取りなしで信勝を助命。しかし、信勝は懲りずに再度の謀反を起こそうとするも、信長に察知され謀殺される。

信長、義龍と同じ手で弟を殺す

永禄元年(1558)11月2日、信勝は信長が病に臥していると聞き、清洲城を訪れたところ、待ち受けていた河尻秀隆らに暗殺されたのだ。信長も、斎藤義龍が弟たちを殺したのと同じ手口を使って弟を始末したわけである。信勝もまた義龍と通じていたとする説がある。

旧・清須城跡に建つ、織田信長と妹・お市の方の像

このように義龍はあらゆる策を講じて信長を討とうとするが、うまくいかなかった。いっぽうで永禄2年(1559年)には室町幕府の13代将軍・義輝の計らいで「相伴衆」に加えられ、義輝から「義」の字の偏諱(へんき)を賜り、名前を「高政」から「義龍」と改名している。

信長が一族郎党との戦いに明け暮れる間、権威を高め、義龍は大名として着実な成長を遂げていたのである。

義龍、謎の急死

ところが好事魔多しとは言ったもので、永禄4年(1561)5月、左京大夫の官職を朝廷より賜わった刹那、義龍は35歳(33歳説も)の若さで急死する。死因は、よく分かっていない。前年に息子や妻を相次いで亡くしており、そのストレスも小さくなかったのかもしれない。

この前年には、信長が飛躍のきっかけとなる「桶狭間の戦い」で今川義元を討っていた。義龍も、いよいよ信長との対決に本腰を入れねばならなくなった矢先の急逝は、歴史の運命を大きく変える出来事であった。

事実、後継者となった斎藤龍興(たつおき)は、まだ14歳だった。龍興は信長の侵攻に苦しめられ、永禄10年(1567)に岐阜城を明け渡し、美濃を乗っ取られてしまう。

急死した義龍の跡を14歳で継いだ斎藤龍興。『真書太閤記 重修』より

龍興は一般に暗君とされ、竹中半兵衛に城を一時的に乗っ取られたり、美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)らに裏切られたあげく、信長の美濃進出を許したことがよく語られる。ただ、その経過をよくみれば、永禄10年までの6年間、信長のたび重なる侵攻に耐えたのも事実である。

義龍存命なら、信長は美濃を獲れたか?

逆にいえば、信長は初めての他国侵略戦となった美濃攻略までに6年もの歳月を要した。このことは稲葉山城の要害ぶりを示すものであり、龍興以下、美濃の国衆たちがいかに精強であったかのあらわれでもある。

たらればだが、義龍が若くして急死せず、あと5年や10年も長生きしていたら、信長の美濃侵攻はその分だけ長引いたか、あるいは不可能だったかもしれない。そうなれば、信長が稲葉山城を岐阜城と改めて「天下布武」をスローガンとし、京都支配の実現も夢のまた夢で終わった可能性もある。

戦国大名・斎藤義龍の死は、歴史を大きく揺るがす出来事といえた。

にもかかわらず、義龍の後世の評価や知名度が高くないのは、短命であったことに加え「父殺し」はおろか、「弟殺し」も行なった悪名の裏返しもあるだろう。

だが、信長とて「弟殺し」を行なったし、かの武田信玄も父・信虎を追放したうえ、息子の義信を殺している。伊達政宗も、事情はどうあれ父・輝宗を撃ち殺した。

戦国乱世に身内殺しの例はいくらでも出てくる。こうした血みどろの時代を生き延びた手段を、現代の「ものさし」で見てはならないことを改めて思い知らされる。

文・上永哲矢

 

<関連記事>
【美濃のマムシ:斎藤道三】下剋上で国盗りした男の人生とその最期
【長良川の戦い】斎藤道三親子の対立と、明智光秀・織田信長への影響
【織田信長の妻】斎藤道三の娘、謎多き濃姫の生涯と嫁いだ理由とは

Return Top