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第20回「薩長同盟は坂本龍馬によって実現したのか?」【歴史作家・山村竜也の「 風雲!幕末維新伝 」】


幕末維新の志士や事件の知られざる真実に迫る連載「風雲!幕末維新伝」。第20回のテーマは「薩長同盟は坂本龍馬によって実現したのか?」です。

龍馬は薩長同盟にどの程度関与していたか

坂本龍馬の名前が学校の教科書から消えるというショッキングなニュースが、2年ほど前に報道されました。結果的にその提案は取り下げられ、龍馬の名は従来どおり教科書に載ることになりましたが、なぜそのような事態が起こったのでしょうか。

それは、龍馬が幕末になしとげた事蹟が明確でないことが原因でした。龍馬の功績として最も大きなものは、薩長同盟と大政奉還の二つなのですが、実はいずれも龍馬がどの程度関与したのかはっきりしていないといわれています。

そこで今回はそのうちの薩長同盟について、龍馬がどの程度関わっていたのかを、改めて検証してみたいと思います。

薩長同盟そのものは、龍馬よりも早く土佐藩士の土方久元らによって進められていましたが、動きが加速したのは慶応元年(1865)4月に龍馬が参加してからのことでした。龍馬は同郷の中岡慎太郎と協力して、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小五郎(木戸孝允)を説得しようと尽力します。

当時の薩摩と長州は対立関係にあったため、龍馬らは大変苦労しましたが、ようやく翌慶応2年(1866)1月、薩摩と長州は話し合いの席に着き、手を組もうというところまでこぎつけることができました。

しかし、その最終段階で、両藩の関係が再びこじれ、同盟の件は暗礁に乗り上げてしまったのです。

桂小五郎が証言する龍馬の尽力

慶応2~3年ごろに撮影されたブーツ姿の坂本龍馬

薩摩藩家老・小松帯刀の京都の寓居で1月初めから滞在していた長州の桂は、当時の手記にこう記しています。

「手厚くもてなされてもう20日ほどになるが、薩摩は一向に両藩の和解に関する話を切り出してこない。このままむなしく滞在していても仕方がないので、私は帰国しようと思った」
(「木戸孝允覚書」意訳)

せっかく実現寸前まで進んでいた和解の件は、薩摩が藩の体面を気にして自分からは言い出さなかったため、桂は怒って帰国しようとしたのです。龍馬はその間、京都に向かっていましたが、諸事情により遅れ、京都に着いたのは1月20日のことでした。

すでに同盟の話がまとまっていると思っていた龍馬は、まったく話が進んでおらず、そればかりか桂が帰国しようとしていることを知り、憤然とします。そして、いまは薩長両藩がお互いの事情にこだわっている場合ではなく、日本の将来のために腹を割って話し合うべきではないかと桂を説いたのです。

桂は龍馬のいうことに理解を示しつつも、幕府に攻められて窮地にある長州のほうから同盟の話を持ち出せば、薩摩に助けを乞うことになり、どうしてもそれはできないと答えます。龍馬は困りはてました。

このあとの龍馬の行動は「木戸孝允覚書」には記されていないのですが、土佐藩の基本史料である「維新土佐勤王史」には次のように明記されています。

「直ちに西郷のもとに至り、その無情な態度を責めたところ、西郷、大久保らもついに決心し、『それでは、こちらのほうから改めて同盟の件を桂さんに申し出ましょう』とのことだった」
(「維新土佐勤王史」意訳)

こうして翌21日、薩摩と長州の間で改めて同盟に関する話し合いが持たれることになりました。「維新土佐勤王史」には「木戸孝允覚書」ほどの同時代性はありませんが、ほぼこのようなやりとりがあったことは想像できます。

崩壊寸前だった長州と薩摩の関係を、たった一人で修復し、両者に同盟締結を了承させる。そんな難事業をこなすことができる唯一の存在が、龍馬だったのです。

薩長同盟締結の日はいつだったか

薩長同盟縁の地

ところで、薩長同盟は正確には締結された日付がわかっていません。一般的には、龍馬とともに行動していた長府藩士・三吉慎蔵の日記をもとに、21日のこととされています。

「同月二十三日夜 坂本氏が京都から到着したので、夜遅くまで京都の様子を聞きました。なお去る二十一日、桂小五郎と西郷との談判が約決したということを、詳しく坂本氏より聞き取りました」
(「三吉慎蔵日記」意訳)

三吉は伏見の寺田屋で龍馬の帰りを待っており、23日に帰着した龍馬から、同盟が21日に成ったことを聞いたのでした。しかし、龍馬自身が記録した「坂本龍馬手帳摘要」には、21日の項は空欄で、22日のこととして次のように記されているのです。

「廿二日 木圭、小、西、三氏会」
(「坂本龍馬手帳摘要」原文)

同盟が成ったのが、桂、小松、西郷と会った22日のことと思わせる記載になっています。21日と22日、いったいどちらが正しいのでしょうか。

おそらく、21日の会談で同盟は合意に至ったものの、その日は龍馬は同席しなかったと考えられます。会談の成り行きは気にかかっていたはずですが、とりあえず薩長の当事者だけにまかせて、他藩人である自身の同席は遠慮したということかもしれません。

それが、同盟が合意されたという報告を受け、翌22日に改めて立会人として同席することになり、木戸、小松、西郷と会談した。それが「手帳摘要」の記載の意味するところだったと思えるのです。

薩長同盟締結という幕末史上きわめて重要な出来事があった日付が、史料によって一定していない理由は、そういう事情によるものだったと私は考えています。

龍馬が保証人となった薩長同盟

薩長同盟成立まで奔走した坂本龍馬。志を同じくした中岡慎太郎の像。(円山公園:京都)

この薩長同盟の内容は、龍馬が同席した22日に至っても文書化されることはありませんでした。もともとこれは秘密の同盟であるため、文書に残すことがためらわれたからです。

そのことを、あとになって桂が不安に思うようになりました。22日のうちに京都を去って大坂に至った桂は、23日に龍馬にあてて長文の手紙を書きます。そこには薩摩と合意した六か条の内容が箇条書きされており、間違いがないかどうか龍馬に確認を求めたのでした。

この手紙は、23日夜に伏見の寺田屋で龍馬が幕吏に襲撃される事件があったため、しばらくは確認することができませんでしたが、事件後にかくまわれた京都二本松の薩摩藩邸でようやく龍馬の手元に届けられました。そして六か条の合意内容に間違いはないと確認した龍馬は、手紙の裏面に朱筆でこう記したのです(意訳)。

「表に記された六か条は、小松、西郷の両氏、及び老兄(桂)、龍馬等も同席して談論したもので、少しも間違いはありません。将来に至っても決して変わることがないのは、神の知るところです。 丙寅(慶応二年)二月五日 坂本龍馬」

「坂本龍馬手帳摘要」の22日の項に記された小松、西郷、桂の名がそのままあげられ、自分を含めた4人で確かに確認した内容であると、龍馬は裏書きしました。この瞬間、薩長同盟の偉業は龍馬という一介の浪士によって保証され、成立したといっていいでしょう。

龍馬による裏書きを受け取った木戸は、よほど嬉しかったとみえ、文書を大切に保存しました。戊辰戦争の戦火もくぐり抜け、維新政府が樹立される混乱のなかでも紛失されることのなかったこの文書は、現在も宮内庁書陵部に保管され、龍馬の功績を私たちに伝えてくれているのです。

 


「世界一よくわかる坂本龍馬」(著:山村竜也/祥伝社)

幕末維新の英雄としてあまりにも有名な坂本龍馬。しかし、これまでは過度に美化されてきたところも。NHK大河ドラマ「西郷どん」「龍馬伝」の時代考証家が史料を読み込み、人間・龍馬の真の姿を解き明かす。

 

 



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