昨年の「真田丸」ほどではないにしても、なかなかの盛り上がりを見せているNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」。弱小領主に過ぎなかった井伊家の人々の奮戦を、次郎法師という女性の視点から描いたドラマであり、斬新な切り口が評判のようだ。
昨年(2016年)12月、京都・井伊美術館で新史料が見つかり、「直虎は男性であり、次郎法師とは別人だった」という説が浮上して話題になったことは記憶に新しい。
新史料が相応の真実味を持っていた状況下で、さらに一石が投じられた。今年2017年4月、直虎と次郎法師に関する2例目の古記録が、同じく井伊美術館から発見・発表されたのである。
井伊家の重臣として働いた河手(かわて)家に伝わる『河手家系譜』の中に、「井ノ直虎」「次郎法師」という名前が記され、それぞれに「(直虎)は次郎なり」「次郎法師は直盛公の娘なり」との注釈が入っていることが確認された。つまり、「直虎は男性であり、次郎法師とは別人だった」とする新説をさらに裏付ける内容である。
これは、去る4月11日に新聞・テレビのニュースで一斉に公開されたため、ご覧になった方も多いだろう。文字と音声だけでは関係性が分かりにくいため、京都・井伊美術館の井伊達夫氏が作成された資料をもとに、相関図にしてみた。上がそれである。
この相関図からは、当時の井伊谷(いいのや)には男女2人の「次郎」が存在していたこと、男性の「井伊次郎直虎」が、女性の次郎法師と「いとこ」同士の関係にあったことがわかる。また、井伊次郎は通説通りに井伊直盛の娘であるが、直虎は今川家の家臣の息子であり、今川の息のかかった者であったことも読み取れる。
なぜ直虎女性説が通説となったのか
京都の井伊美術館を訪ね、館長・井伊達夫さんに話を伺ってきた。
「次郎法師と井伊直虎。確かに2人とも実在した人物です。しかし、同一人物ではなく別人でした。次郎法師は井伊直盛の娘。そして井伊直虎とは今川家から送り込まれた武将・関口氏経の息子なのです。両者が辿った末路も、まったく異なるものとなったことが分かりました」
井伊さんは井伊直政直系の名跡継承者(井伊直政の長男・直勝からつながる子孫)。古美術品や武具類の調査および鑑定を行う傍ら、生まれ育った彦根や先祖である井伊家の研究に余念がない。井伊家にまつわる古書や文書も膨大な数を所持している。
「次郎法師と井伊直虎とが同一視されたのは、ほんの四半世紀前。『井伊家伝記』の記述を強引にそう解釈した結果、井伊直虎は次郎法師である、とする説が明確な根拠のない形で出回ってしまったのが原因なのです。しかし、そもそも『井伊家伝記』に直虎は登場しません。それを蜂前神社の文書にある『直虎』と同一視するのは、無理のある解釈といえるでしょう。でも当時は『井伊家伝記』程度しか史料がなかったですし、『次郎』を名乗った人物が他に知られていなかったので、反証の声がありませんでした。そのうち、それが『通説』となってしまったのです」
「今回発表した新史料の中に『次郎』や『井伊次郎』が登場するのですが、そのうち2ヵ所に『直虎也』と朱書きの注釈が入れられています。それによれば『河手景隆は井伊次郎に属す。この次郎は御家(井伊)の者ではない。今川の物(原文ママ)なり』とされています。者を『物』として、今川家を貶めているところは江戸時代の記録らしく面白いですね。それだけでなく、『次郎法師は井伊直盛の娘。河手景隆は次郎法師を後見した』とも記されています」
新史料『河手家系譜』には、「井ノ直虎(次郎)は幼弱ゆえ、河手と新野がこれを補佐する」「永禄11年(1568)、直虎駿河くずれの時、花沢へ落ちる途中に討死の由」とある。従来の説(井伊直虎=次郎法師)より14年早く、直虎は世を去ってしまったのだ。
男・直虎の最期
永禄11年の「駿河崩れ」とは武田信玄の駿河侵攻。そして、それに呼応した徳川家康の遠江侵攻である。この「挟み撃ち」によって、今川氏真は最後の砦であった掛川城へ籠城。翌年に至り、ついに降伏開城して大名・今川家は滅亡した。
そして徳川の大軍に追われた遠江井伊谷の領主・直虎も戦いの中に散った。なんとも呆気なく思えるが、直盛・直親という当主を次々と失い、風前の灯となっていた国人領主の最期に似つかわしい、リアリティを持った描写といえよう。
「今回の発見で、直虎を後見していた河手景隆が『ある時期井伊氏を称していた』という記述が見つかり、興味深かったです。景隆は新野左馬助の招きで井伊谷へ来て、直政の姉や次郎法師を庇護した人物です。今川家に一応は属した彼が、乱世とはいえ『井伊』という苗字を使い、実質的に井伊谷を支配していた。重要な発見だったと思います」
直政が家康に仕えた後、景隆の子・良則が直政に仕えた。この時には井伊の名乗りをやめ、河手という本姓に戻っていたようである。良則は直政の姉・高瀬姫を娶り、井伊家第一の家老として活躍する。曾孫の代で断絶するが、幕末の嘉永6年(1853)に再興された新野左馬助の子孫である親良の次男が継承し、河手家を再興した。
「『河手家系譜』はその河手家に伝わった極秘の史料。景隆は元の名を山田新治郎といい、後に河手主水佑(助)と改名しましたが、一時は井伊姓も名乗りました。『河手家系譜』には、その部分が「畏れ多し」と、墨で黒く塗られています。しかし、これも同家にとっては大きな由緒です。幕末には本家が潰れ、分家ばかりになっていた河手家。後世、その子孫が「恐れ多い」と主家に遠慮して塗りつぶした思いが感じとれるのです」
NHKとの関係は良好です!と語る井伊氏
「大河ドラマで盛り上がっている、この時期に異説を発表するなんて、とんでもない……という声も聞きます。しかし、私は史料の中の直虎と、ドラマの直虎とは全く関係がないと考えています。井伊の子孫であることはさておき、歴史に携わる者として真実に迫れる記述を知って知らざる真似はできません」
「大河ドラマにケチをつけるとか、水を差そうなどといった意思はまったくありません。NHKさんとは古い付き合いで、現在も関係は良好ですよ。直虎・男説も、NHKさんはニュースで取り上げてくださいました。逆に、大河ドラマ放送で話題になっている今でなくては、私も新史料を発見できなかったかもしれません。この機会に、ひとりでも多くの方が、井伊家の歴史や、その真相究明に興味を持っていただけたら嬉しいですね。史実とドラマとは別。史実はしっかりと見つめなければいけません」
発表のタイミングが「大河・直虎」放送と重なったこと、井伊家の名跡継承者であることから一層の注目を浴び、さまざまな声が聞かれた新説発見の一件。しかし歴史を愛し、その真相解明に向き合う姿勢は、研究者であろうと大名の子孫であろうと、一般市民であろうと何ら変わりはないはずだ。発表のタイミングについても、もし1年遅らせたとしたら、これほど注目を集めることはなかっただろう。
大河ドラマがフィクション要素を多大に含んで良いかどうかを問う声もあるが、それはここでは語るまい。だが、男説の発表で興味を持って大河ドラマを観るようになったという人もいると聞く。もともと「おんな城主 直虎」に対する期待度は高くなかったが、今は楽しんでいる人も多い。新説の受け取り方は人それぞれだが、井伊家およびドラマの認知度アップにもつながっているのは、喜ばしいことといえるのではないだろうか。
【文と写真:上永哲矢】
<京都・井伊美術館>
http://www.ii-museum.jp/
京都東山の閑静な住宅地に建つ井伊美術館。テーマに沿う形の展示が行なわれており、現在は「井伊直虎と次郎法師尼~蘇った青年武将・直虎」(2017年11月10日まで)が開催中。直虎着用の胴丸、井伊直親や小野道好肖像など必見の展示だ。京都市東山区花見小路四条下ル4丁目小松町564
TEL 075-525-3921
13:00~17:00 大人1500円
※見学は電話予約制。臨時休館あり井伊達夫館長のプロフィール:昭和17年(1942)、滋賀県彦根市生まれ。昭和59年(1984)、京都に『戦陣武具資料館』(現在の『井伊美術館』)を設けた。平成17年(2005)に井伊直政直系(直勝の系統)の名跡を継承。18代目当主にあたる。
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