数々の人気芸人を輩出し、日本のお笑い業界をリードし続けている吉本興業。その創立者である吉本せいをモデルにしたのが、現在放送中のNHK連続テレビ小説『わろてんか』です。ドラマでも描かれているように、実際に若い頃から苦労を重ねてきたせいが、どのような成りゆきから吉本興業を創立し、成功をおさめていったのか。逆境にもめげず、常に機転を働かせながら力強く生きた、せいの生涯についてご紹介します。
奉公先での苦労
せいが生まれたのは、明治22年(1889)12月5日。兵庫県明石市で米穀商を営んでいた林家の第4子として誕生しました。12人も兄弟がいたことから、暮らしは決して豊かではなく、学校での成績が優秀だったせいも、当時の義務教育とされた4年間の尋常小学校を修了すると、大阪・船場の実業家のもとに奉公に出されました。
奉公先で、せいは懸命に働きましたが、何かと苦労が多かったようです。特にこの家の主人は、度が過ぎるほどの倹約家だったことから、奉公人たちはつらい思いをしていました。ときには奉公人の食事すらケチり、食欲がわかないようわざわざ雨水がかかる場所に漬物樽を置き、悪臭を漂わせていたとか。せいが刻んだショウガを食事にかけるなど機転をきかせることで、難を逃れたという逸話が残っています。
「吉本興業」の始まり
19歳のころ、せいは吉本家の二男・吉次郎(のちの吉兵衛)に嫁ぎますが、これでようやく幸せに、というわけにはいきませんでした。
嫁ぎ先は、大阪内本町にあった老舗の荒物問屋でしたが、当時は日露戦争後のバブルが崩壊し、不景気の真っただ中にあったことから、経営は右肩下がり。そのうえ、夫は芸能好きで遊んでばかりだったため、店を立て直すどころの話ではありませんでした。
さらに、苦労に拍車をかけたのが、姑であるユキの嫁いびり。夫がそれに無関心だったことも相まって、せいは実家に身を寄せた時期もあったそうです。それでもせいは、夫を見限ることはなく、2男6女の母として子育てを行いながら、懸命に働くことで家計を支えました。
そして、明治45年(1912)、芸能好きが昂じた吉兵衛は、ついに天満天神の裏門にあった寄席「第二文芸館」を買い取ります。ただし、この買収資金は、せいがあちこち頭を下げて金策にまわり、ようやく工面したものでした。
大正2年(1913)1月には、「吉本興行部」を設立し、せいは夫とともに興行主として寄席経営をはじめます。当初の経営状況は芳しくありませんでしたが、せいの機転がターニングポイントとなり、風向きは変わっていきました。
物販、救援物資…せいの機転で大繁盛
たとえば、せいは興行主であったにもかかわらず、客席の整理や芸人の身支度を積極的に手伝ったそうです。その気づかいに芸人たちは感激し、せいが行う興行には、特に力を入れて取り組むようになっていきました。
また、寄席の売り上げに貢献するため、さまざまなものを売りましたが、その方法が実にユニークでした。たとえば夏場に、冷やし飴(湯で溶いた水あめの中にショウガの搾り汁を加えた飲み物。関西圏を中心に飲まれる夏の定番)を販売したときには、氷の上に瓶を置き、ゴロゴロ転がしながら売ったそうです。
これが評判となり、当初は寄席の客に売るつもりだったものが、通行人にまで売れ、最終的には、冷やし飴を買うついでに寄席を見に来る客まで現れるようになりました。
朝ドラでもこのエピソードをもとに、葵わかなさん演じる北村てんが冷やし飴を売るシーンが描かれていました。
大正12年(1923)に起こった関東大震災でも、せいの機転が福を呼び寄せます。
復興のための救援物資を関東に送っただけでなく、震災によって弱気になっていた東京の芸人たちを励ますことも忘れませんでした。また、大阪にやってきた東京の芸人たちを集め、寄席を開いたりもしたそうで、客の入りは上々だったそうです。
上方演芸界を席巻
その後も、斬新な興行を次々に成功させ、新しい笑いのスタイルを生み出していくことで、吉本興業の名は全国に轟くようになっていきます。いつしか「女今太閤」「女版小林一三」と呼ばれるまでになったせいは、昭和3年(1928)、慈善事業の功績も認められ紺授褒章を受賞。苦労の連続で、笑えない時期が長く続きましたが、笑いをきっかけに多くの富と栄誉を勝ち取ることに成功したせいは、昭和25年(1950)3月14日、肺結核により60歳で死去しました。
いまや日本中に笑いを届ける吉本興業の創設者に、こんな苦労もあったとは驚きです。逆境にめげずに生きた彼女の力強さを見習いたいですね。
(スノハラケンジ)
関連記事
【 歴史好き芸人ユニット・六文ジャー 】話題の「歴史ライブ〜軍師と足軽〜」に行ってきた!
コメント