外国人の社交場として明治16年(1883)7月7日に落成し、11月29日に開館した鹿鳴館。絢爛豪華な洋館は、三島由紀夫の戯曲の舞台にもなり、華麗なイメージがあるかと思います。しかしその時代はたった4年しか続かなかったのです。いったいどうしてなのでしょうか?今回はその理由と鹿鳴館の末路をご紹介いたします。
鹿鳴館とは?
明治16年(1883)に完成した鹿鳴館は、当時の外務大臣・井上馨の肝煎りにより、迎賓館としての目的で建設されました。ここで明治新政府は外交政策を展開し、社交界の中心にしようと考えていたんです。
門は武家屋敷のような黒塗りの門でしたが、ひとたびそこをくぐれば、当時の日本人は見たこともないようなレンガ造りの白亜の洋館が姿を現しました。それは衝撃だったに違いありません。
鹿鳴館誕生の経緯
江戸幕府が欧米列強と結んだ不平等条約の改正は、新政府にとってまず最優先の事項でした。特に治外法権ですね。
また、井上は欧米を訪れた経験から、日本との格差も痛感しており、欧米化が急務と考えたのです。不平等条約を改正するためにも、日本の文明化を示す必要があったわけです。
それに加えて、当時は迎賓館などという建物がなかったので、造らねばということになりました。
鹿鳴館を設計したジョサイア・コンドル
鹿鳴館を手がけたのが、政府のお雇い外国人として来日したイギリス人建築家のジョサイア・コンドルです。彼は工部大学校(現・東大工学部建築学科)で教鞭を取り、数々の日本人建築家も育てました。そして日本人と結婚し、日本に骨を埋めています。
彼は政財界の重鎮や皇族の居宅、教会堂など、多くの建築物を手がけています。現在でも日本正教会の聖堂・ニコライ堂(千代田区)、旧岩崎邸(台東区)、旧古河邸(北区)、レプリカで復元された三菱一号館(千代田区)などがみられます。
ついに鹿鳴館落成!
開館日の前日となる明治16年(1883)11月28日、鹿鳴館には1200人が招待され、落成祝いのパーティーが開かれました。
もともと「鹿鳴」とは、古代中国の詩篇「詩経」に収録された「鹿鳴の詩」から採られました。これには賓客をもてなすという意味が込められていたため、迎賓館にはぴったりだということになったんですね。
さらに鹿鳴館は、舞踏会だけでなく、上流階級婦人たちによる慈善バザーにも使用されるようになりました。明治天皇の誕生日を祝う天長節もここで宴が催されたんですよ。
国内外から不満続出の理由
すべてを徹底的に西洋風にして、欧米に追い付け追い越せの姿勢を見せようとした鹿鳴館でしたが、日本はまだまだ発展途上。西洋からすれば滑稽だし猿真似にしか見えなかったそうです。「床がきしんでいつ抜けるかとビビった」とフランス人に言われたり、国内からも「退廃的だ、贅沢だ」という批判も出てしまいました。
また、井上馨による条約改正がなかなか進まず、世論は彼の外交を弱腰だと糾弾するようになりました。そのため、井上は明治20年(1887)に辞任に追い込まれ、これで鹿鳴館の時代が終わってしまったんです。完成からわずか4年でした。
かつての栄華は跡形もなく・・・
その後、鹿鳴館は宮内省に払い下げとなり、華族会館として使用されましたが、のちに民間へと渡ります。
そして昭和に入り、太平洋戦争が起きると「不経済の象徴」として取り壊しとなってしまったのでした。これが昭和15年(1940)のことです。
現在は帝国ホテルや企業ビルが立ち並ぶ場所に、千代田区による「鹿鳴館跡」という碑がひっそりと設置されるのみとなっています。
文明開化の初期に一瞬の輝きを見せた建物としては、ちょっとさびしい最後だったかもしれません。
(xiao)
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