【三国志:董卓】男伊達から残虐な暴君へ、宮廷権力を手にした武将の一生

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【三国志:董卓】男伊達から残虐な暴君へ、宮廷権力を手にした武将の一生

歴史上には英雄だけでなく暴君と呼ばれる人物もたくさんいますが、『三国志』において最悪の暴君といわれるのが董卓です。武力でのしあがった彼は、やがて宮廷権力を手にいれ暴虐の限りを尽くすようになりました。『三国志演義』より『正史』のほうが残虐だといわれる董卓は、まさに悪人中の悪人といえるでしょう。
今回は、董卓の地方官としての働きや中郎将としての活躍、権力掌握後の暴政や最期などについてご紹介します。

 

地方官としての働き

暴君といわれる董卓も、もとは悪い人間ではなかったようです。董卓の地方官として働きについて振り返ります。

郡の役人になり力量を発揮

董卓は涼州隴西郡臨洮県の出身で、腕力が強く武芸に秀でていたといわれています。若いころは男伊達で、羌族など異民族の土地を放浪して有力者たちと交流しました。のちに故郷で畑作業に従事しますが、有力者たちが訪問すると農耕用の牛を殺して宴会でもてなし感激させたといいます。その後、董卓は郡の役人になり、盗賊を取り締まったり、胡(北方・西方民族)を討伐したりと力量を発揮。これらの活躍により中央の役所に推挙されました。

羌族との戦いで圧勝する

延熹9年(166)六郡の良家の子弟から郎を選ぶことになり、董卓は羽林騎に就任します。この職は天子の身辺を守る名誉職で、洛陽の大学で学んだ文武両道の人が就任していました。そのため董卓も賢い人物だったといえるでしょう。董卓は張奐率いる并州征伐軍に司馬として従い大勝します。この功績により絹9000匹を賜りましたが、すべて部下に分け与えました。董卓は配下の兵から感謝され、その後も累進して并州刺史・河東太守などを歴任しました。

董卓、本性を現す!

武勇に優れ部下にも配慮できる董卓でしたが、ついに本性を現します。黄巾の乱以降、董卓はどのようにのしあがっていったのでしょうか?

清時代の書物に描かれた、黄巾の乱

中郎将として涼州で活躍

光和7年(184)3月、宗教組織・太平道の蜂起により黄巾の乱が勃発します。中郎将に昇進した董卓は討伐に向かい、太平道の創始者・張角と戦うも敗退し罷免されました。翌年、辺章と韓遂が「宦官誅殺」を掲げて反乱を起こすと再び中郎将に任命され、左車騎将軍・皇甫嵩(こうほすう)の副将として討伐にあたります。董卓は反乱を鎮め辺章と韓遂を追撃。この戦いで後漢軍のほとんどは敗北しましたが、董卓軍は大きな損害を受けませんでした。

朝廷の命に逆らい、軍を率い続ける

中平5年(188)韓遂らに備えて軍を駐屯し続けた董卓は前将軍に任命されます。そのころ漢陽郡の王国が挙兵し、韓遂らと合流して勢力を拡大していました。董卓は皇甫嵩とともに討伐に向かいますが、二人の意見は割れ、結果的に皇甫嵩が勝利をおさめて功績をものにします。『皇甫嵩伝』によれば、董卓の作戦は的を射ていないと言われる始末だったようです。その後、董卓は軍を手放して帰還するよう2度も命じられますが、ことごとく拒否して駐屯し続けました。『董卓伝』などによれば、これは時勢をうかがっていたからのようです。

権力を手にした董卓

中平6年(189)4月、霊帝が崩御し少帝が即位します。董卓は軍事力によって昇進を重ね、大きな権力を手にしました。

少帝と陳留王を救出する

何進と協力して激しく宦官と対立した袁紹

霊帝没後、少帝と縁戚関係にある大将軍・何進は、司隷校尉・袁紹らとともに十常侍ら宦官の一掃をもくろみます。何進は地方の軍事指揮官を召集し、それに応じた董卓は首都・洛陽を攻めました。何進は宦官の反撃により殺され、袁紹らは宮中で宦官たちを誅殺していきます。そんななか、宦官の一人が少帝とその弟・陳留王(劉協)を連れ去る事件が起きました。董卓はこの宦官を追撃して少帝と陳留王を救出し、洛陽に帰還します。

政権掌握し、献帝を皇帝に

皇太子を手に入れた董卓は、軍事力で政権を手に入れるべく何進ら殺された有力者の軍勢を取り込みます。また、董卓と同じく何進に召集された丁原(ていげん)の軍も取り込もうと、丁原の暗殺を企てました。董卓は武勇に優れる丁原の部下・呂布を調略し、彼に丁原を殺害させ父子の契りを結びます。こうして強大な戦力を手に入れた董卓は、洛陽で唯一軍事力を持つ存在となりました。董卓は袁紹らを封じ込め、少帝を廃して弘農王に、陳留王を皇帝(献帝)に即位させます。また、少帝の生母・何太后の権力を剥奪し、幽閉して殺害。董卓は権力をほしいままにしたのです。

極悪非道の限りを尽くす!

永漢元年(189)9月、董卓は太尉となり、次いで相国(宰相)に就任しました。廷臣の最高位にまで上り詰めた董卓は、洛陽の富豪の邸宅を襲って金品を強奪したり、村祭りに参加していた農民を皆殺しにしたり、毎夜女官を凌辱したりと暴虐の限りを尽くします。また、故人の棺を暴いて死体を解体し道端に投げすてたり、自分の前で剣を帯びたままだった者を撲殺したりもしました。政権については名士として名高い人物を登用し、能力のない者や不正を働いた者を糾弾。董卓に反発して洛陽から逃げた袁紹については、地位を与え懐柔を図りました。

袁紹・袁術ら反董卓連合軍との対立

初平元年(190)董卓の専横に対し、袁紹・袁術を盟主とする反董卓連合が結成されます。董卓は袁氏一門を誅殺して弘農王を毒殺。強制的に長安に遷都し、洛陽の歴代皇帝の墓を暴いて財宝を奪い、宮殿や民家を焼きはらいました。このとき、袁紹らとの融和策をとっていた者も殺害されています。周囲の反対を押し切って遷都した董卓でしたが、自らは洛陽郊外に駐屯し反董卓連合軍を迎え撃ちました。しかし、初平2年(191)呂布らが率いる董卓軍が孫堅との戦いで大敗。そのため董卓は洛陽を焼き払い長安へと撤退しました。

長安での暴政と最期

新たに首都となった長安でも董卓の暴政は続きます。長安での振る舞いや、董卓の最期はどのようなものだったのでしょうか?

相変わらずの独裁が続く

長安に着いた董卓は、自らを太師とし、一族を朝廷の高官にしました。また、恨んでいたかつての上司・張温を鞭で打ち殺したり、民衆を調査し違反者の財産を没収して処刑したりと、長安でも暴政を敷きます。宴会では謀反人を拷問で処刑したといわれ、捕虜は舌を抜かれて目をえぐられ、熱湯の大鍋で殺されました。董卓はその光景を見ながら笑って酒を飲んだといいます。

一方、諸侯らは袁紹派と袁術派にわかれて争うようになっており、長安遷都に反対した朱儁(しゅしゅん)は献帝の奪還を狙ったものの董卓の娘婿・牛輔に破られました。また、のちに曹操軍の筆頭軍師となる荀攸(じゅんゆう)が董卓暗殺計画を企てますが、これも失敗に終わっています。

信任した王允と呂布に裏切られ……

『三国志演義』で描かれた王允の肖像画です。

このころ董卓は、司徒・王允(おういん)に政治をまかせ、養子となった呂布に身辺警護をさせていました。信頼されていた二人でしたが、実のところ王允は董卓の暴虐を憎んでおり、呂布もかつてのミスで董卓に殺されそうになったことから恨みを抱いていたのです。王允は呂布の不安に乗じて、董卓暗殺計画の仲間に引き入れます。そして初平3年(192)献帝の病気平癒を祝う宴会が開かれ、参加した董卓が呂布により殺されました。その後、董卓一族も殺され、長安の民は董卓の死を喜んだといわれています。

残忍な暴君として名を刻んだ

もともとは男伊達を気取っていた董卓ですが、権力を手に入れてからは残虐な行為を繰り返しました。『三国志』の著者・陳寿は、董卓は残忍かつ暴虐非道で、記録に残されている限りこれほどの人間はいないだろうとまで記しています。董卓の存在は日本でも知られており、奈良時代には暴君の代名詞とされていたようです。

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