【中国史上歴代ワースト3位の短命政権】なぜ、隋は2代で滅びたのか?

世界史

チャンネル銀河で放送中の中国歴史ドラマ「独孤伽羅~皇后の願い~」。日本初放送となるそのドラマをより楽しんでいただけるよう、前回に引き続いてその舞台である隋(ずい)の興亡史を解説。日本との関わりや、おなじみの「遣隋使」にまつわる豆知識も併せ、まとめてみた。

前回の記事:【中国を300年ぶりに統一!】隋の皇帝・煬堅の功績と活躍から恐妻家の一面まで

およそ300年ぶりに中国を再統一した国家、隋王朝。有名な王朝(帝国)なので、長く繁栄したのかと、ついつい思ってしまうが、実像はその真逆である。上の図を見てほしい。歴代中国の統一王朝を上から順に並べ、ランキングにしてみたものだ。これを見れば一目瞭然だが、隋はたった2代、わずか37年で滅亡している。

たった37年の短期政権は何が原因だったのか?

これは始皇帝が築いた「秦」、前漢と後漢の間にあった「新」に次ぐ、ワースト3位の数字である。そして皮肉なことに、史上もっとも長期政権を保ったのが唐の289年(618~907年)。つまり、隋を滅ぼして興った国が一番長く栄えたことになる。

三国時代を統一したはずの晋(西晋)でさえこんなにも短命だったのか、と改めて実感させられる。400年近くも続いた日本の平安時代(794~1192年)は逆に、いかに長期であったかが分かるというものだ。

ではなぜ隋が、かくも短命に終わったのか。ひとつには建国者で初代皇帝の楊堅(ようけん)の跡を継いだ2代目・煬帝(ようだい)の暴政である。煬帝は後世についた名で、本名は楊広という。楊堅と、その妻・独孤伽羅(どっこから)との間に生まれた次男だった。本来、世継ぎではなかったのだが、後継者争いの末にその地位を勝ち取ったのである。(そのいきさつは、前回のコラムをご覧いただきたい)

煬帝の父・楊堅と母・独孤伽羅(『独孤伽羅~皇后の願い~』より)

楊広の帝位継承は、母・独孤伽羅の思惑が大きかった。伽羅は、色好みの長男・楊勇を廃嫡し、次男の楊広を世継ぎにしようと画策。周到な裏工作をして、その意思を遂げたが、西暦602年、夫の楊堅より先に亡くなった。2年後の604年、今度は煬堅が死の床についた。すると、楊広は本性をあらわしたのか、父の側室を手ごめにしようとする。

それを知った煬堅は、長男・楊勇を呼び戻す。が、時すでに遅し。彼が病床へ着く前に、息をひきとってしまった。かくして楊広は帝位継承に成功した。あまりのタイミングの良さに、楊広が父に手をかけたのではないか、と疑う声も根強い・・・。怖いもののなくなった彼は、兄・楊勇を自害に追い込み、その息子たちもみな殺害してしまった。

大運河の造営は、男女共同参画だった?!

皇帝即位後、楊広(以下・煬帝)は政務・軍務ともに意欲的に取り組んだ。そのひとつが大規模な土木工事と大運河の造営であった。特に大運河は、交通の便の悪かった大興城(長安)と北方(現在の北京方面)、また江南・長江南方を結びつけようという大事業で、父の代からの悲願だった。

動員100万人とも200万人ともいわれる強行は苛烈を極め、民衆に多大な負担を強いた。むろん、こういった労役は男性の仕事と思われがちだが、煬帝は女性までも動員して働かせたというから、その労働力は莫大だった。

見方を変えれば、大運河の造営は中国の南北を初めて直接むすぶ幹線となり、中国の経済的な一体化をうながし、統一をもたらした。また女性の動員は、当時としてはとんでもないことではあったが、現代的な視点で見れば、よくいわれる男女共同参画のさきがけと見ることもできよう。

こうした煬帝の行いと価値観は、母親の独孤伽羅に影響された部分が強かったのではないだろうか。伽羅は夫・煬堅に「一夫一婦制」を強いて誓わせ、夫以上の権勢をふるい、当時の常識をくつがえした女性でもあった。ある種、極端に潔癖ともいえた母。その感情を利用して、煬帝は幼いころから控えめにふるまった。結果、母に溺愛されて帝位に就けたというのも事実である。

遣隋使に対し、煬帝が激怒したというのは本当か?

隋の2代皇帝・煬帝(楊広)

さて、煬帝といえば「遣隋使」。当時の日本が隋に贈りものを献上した、いわゆる朝貢のことで、600年~618年の18年間に最低5回は派遣されている。当時、倭国はまだ「日本」と名乗っておらず、「倭」と呼ばれていた。その第1回目は西暦600年、煬堅のころで、2回目の607年に倭の使者が煬帝に会ったことを両国の史書『日本書紀』『隋書』が伝えている。

使者は小野妹子。有名な「日出処の天子……」の国書を持参した。日本側の倭王は、「天子」つまり皇帝を名乗って挨拶したので、煬帝が激怒したなどという逸話もよく知られている。東海の島国の主が「日の出ずるところの天皇」、大陸の皇帝が「日の沈むところの天皇」というわけで、いわば対等、いやむしろ日本側が上である、と言ったに等しい。それに激怒したというのである。

だが、煬帝は「皇帝、倭皇に問う」と返答し、倭に返礼の使者を送った。「倭皇」つまり倭の皇帝と認め、対等の立場であることを認めるなど、度量の広いところを見せたのだ。その後も618年まで、倭は何度も遣隋使を派遣し、留学生を送り込んでいる。煬帝が激怒していれば、そのような待遇は受けなかったのではないだろうか。

ともかくも、煬帝の寛大な態度によって、倭は大陸文化を取り入れて大きく成長することができた。そうした経験が、次の「遣唐使」の派遣にもつながり、ほどなく誕生する「日本」という国家の創生にも影響したであろうことは想像に難くない。煬帝は、ある意味で「日本は俺が育てた」と、胸を張っても良いぐらいの人なのかもしれない。

晩年は覇気を失ってしまった煬帝

唐を建国した初代皇帝・李淵(高祖)

また煬帝は遠征を積極的に行なった。高句麗、つまり朝鮮半島への出兵である。この遠征も民や兵に大きな負担を強いるものだったが、煬帝は彼らへのケアができなかった。搾取する一方だったのである。3度にわたる遠征はことごとく失敗した。結果、反乱が起きた。

側近、楊素の息子・楊玄感による反乱をきっかけに、それまで煬帝に不満を持っていた者たちが次々と蜂起。それに呼応して北方の騎馬民族、突厥(とっけつ)も南下。もちろん、皇帝の力は絶大だから簡単に負けたわけではない。煬帝は何度も乱を鎮圧したが、捕らえた捕虜や人質を残虐な方法で殺したり、援軍に恩賞を払わなかったりと、ここでもケア不足を露呈した。

結果、煬帝はついに都・長安から逃れ、東南の江都(揚州市)へと逃れるが、それまでの覇気をなくし、すっかりやる気をなくしてしまう。酒色におぼれ、政務も放置した。側近たちが何度も諫言に来るが、耳を貸さなかった。人心は地に堕ち、最期の時が迫る。618年、反乱軍が宮中へなだれこみ、ついに煬帝はくびり殺されてしまった。

同年、その反乱軍の一派を率いていた李淵が、煬帝の孫・楊侑(ようゆう)を擁立したが、すでに隋は力を失っていた。李淵は楊侑から禅譲され、を建国した。李淵は煬帝の母、独孤皇后の甥にあたる人物である。李淵の次男、李世民はその後を受けて天下統一を果たし、唐はその後、10世紀の初め、300年近い治世を実現する。

唐がそれだけの長期政権として存続できたのは、煬堅・煬帝の失敗を反面教師とし、彼らが2代で築き上げた大運河などの遺産をうまく利用したのも要因と考えられる。それこそが中国史上最長の唐という政権の大きな土台ともなったのである。

文・上永哲矢


中国歴史ドラマ「独孤伽羅~皇后の願い~」
放送日:2019年3月6日(水)放送スタート 月-金 夜11:00~
リピート放送:2019年3月7日(木)放送スタート 月-金 午前9:30~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/dokkokara/

画像:『独孤伽羅~皇后の願い~』©Beijing Hope Century Motion Pictures Co., Ltd


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