井上馨は、明治維新後に不平等条約の改正に尽力した外務大臣です。また、大蔵省時代は渋沢栄一とともに近代日本の礎を築いたことでも知られています。明治時代の日本において、政治家としてさまざまな活躍をした井上とは、どのような人物だったのでしょうか?
今回は、井上が過ごした幕末から明治維新、明治時代以降の条約改正への働き、大命拝辞と晩年などについてご紹介します。
幕末から明治維新まで
幕末にうまれた井上は、どのように明治維新を迎えたのでしょうか?長州藩士時代の井上について振り返ります。
毛利氏家臣・井上氏にうまれる
井上は、天保6年(1836)長州藩士・井上光亨の次男として、周防国吉敷郡湯田村(現在の山口市湯田温泉)でうまれました。毛利氏家臣・井上氏の出身で、先祖は毛利元就の宿老である井上就在。嘉永4年(1851)兄とともに藩校・明倫館に入学し、安政2年(1855)に長州藩士・志道氏の養嗣子(家督相続人となるべき養子)となります。藩主・毛利敬親の江戸参勤に従ったあとは、伊藤博文との出会いを経て、岩屋玄蔵らに師事して蘭学を学習。帰国後は西洋軍事訓練に参加し、文久2年(1862)敬親の養嗣子・毛利定広の小姓などを務めて再度江戸に出ています。
長州藩士時代の働き
江戸遊学中に尊王攘夷運動に共鳴した井上は、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤らとともにイギリス公使館焼討ちに参加しました。しかし、文久3年(1863)に長州五傑の一人としてイギリス留学すると、国力の違いを体感して開国論へと転換。翌年の下関戦争では伊藤とともに和平交渉に尽力し、第一次長州征伐では武備恭順を主張したため俗論党(幕府に恭順しようとする保守派)に襲撃され重傷を負います。
その後、高杉とともに功山寺挙兵で藩論を開国攘夷に統一。慶応2年(1866)に坂本龍馬の仲介で薩長同盟が組まれると、第二次長州征伐で戦い幕府軍に勝利します。王政復古後は、新政府の参与兼外国事務掛、長崎府判事、造幣局知事などを務めました。
明治時代と条約改正
明治維新後の井上は政治の中心に身を置きます。また、外務大臣になってからは不平等条約の改正に奔走しました。
大蔵省へ入省する
維新後、木戸孝允の引き立てで大蔵省に入った井上は、副大臣に相当する大蔵大輔に昇進します。大蔵卿・大久保利通が木戸や伊藤らとともに岩倉使節団に加わると、留守政府を預かり事実上の大蔵省長官として権勢をふるいました。しかし、多額の予算を要求する各省と衝突し、アメリカからの外債募集もうまくいかず財政は窮乏。緊縮財政と予算制度確立を図るも、汚職事件などを追及され辞職に追い込まれます。その際、渋沢と連名で、政府の財政感覚の乏しさを指摘する建議書を提出し、これが新聞・雑誌に掲載されたことが国家予算の明朗化につながりました。
その後、使節団が帰国し、征韓論をめぐって西郷隆盛、板垣退助らが下野。大蔵省の権限分譲案として挙げられた内務省が創設されました。
大阪会議と明治十四年の政変
その後の井上は実業界に身を置きましたが、伊藤の要請で政界に復帰します。そして、辞任していた木戸と板垣を説得し、明治8年(1875)に大阪会議を実現させました。翌年には経済を学ぶために欧米を外遊しましたが、日本の政情不安を知らされ帰国。大久保の暗殺後に伊藤が政権をとると、井上は参議兼工部卿に就任し、のちに外務卿へ転任しました。明治十四年の政変では、国家構想で伊藤と対立した大隈重信を追放。その後、朝鮮との外交に対処し、条約締結により戦争を回避するなど功績を上げています。
鹿鳴館による外交政策
この当時の日本の外交の課題は、不平等条約改正と領事裁判権撤廃でした。幕末に江戸幕府が結んだ安政五カ国条約とその後の諸条約は、領事裁判権を認めたり関税自主権がなかったりと、日本にとって不利な内容だったのです。
日本は数年前まで打首・磔刑などを行っており、これを目撃した外国人たちにとって日本はいまだに遅れている国でした。彼らは、自国民がそのような前時代的な刑に処されないよう領事裁判権撤廃に強く反対していたのです。
このような経緯から、井上は欧化政策を推進し日本が文明国であることを諸外国に示そうとしました。そして明治16年(1883)、文明開化のシンボルとして東京都千代田区日比谷に鹿鳴館を建設。海外の要人を接待するなど条約改正交渉を進めようとしましたが、欧化政策反対派からは非難の声が上がり、井上の鹿鳴館外交への風当たりは厳しくなりました。
内閣発足とノルマントン号事件
明治18年(1885)太政官制度の廃止により内閣制度が発足すると、井上は第1次伊藤内閣の外務大臣に就任します。引き続き条約改正に専念するなか、明治19年(1886)10月24日にノルマントン号事件が勃発。これは、横浜港から神戸港に向かったイギリス貨物船ノルマントン号が紀州沖で座礁沈没した事故において、ジョン・ウイリアム・ドレーク船長以下イギリス人やドイツ人ら26名は全員救命ボートで脱出し手厚く保護されたものの、日本人乗客25名が船中に取り残され溺死したというものです。船長は日本人を見殺しにした疑いで責任を問われるも不問に。船長らの差別行為と不平等条約による領事裁判権に対し、国民の反意が爆発しました。
条約改正は頓挫し……
井上は不平等条約改正を求める交渉会議で、外国人の居留地の解放、外国人判事の任用という条件で領事裁判権の撤廃を提案します。また、関税率も5%から11%に引き上げました。諸外国はこの改正案に同意しましたが、明治20年(1887)に改正案の内容が広まると国内で反対運動が巻き起こります。谷干城らの閣僚も反対に回ったため、井上は改正交渉延期を発表し外務大臣を辞任。これにより井上による条約改正交渉は頓挫したのでした。
大命拝辞と晩年
外務大臣として尽力するも問題解決には至らなかった井上。その後はどのような働きをしたのでしょうか?
内閣で要職を歴任する
伊藤が辞任し黒田清隆が首相になると、井上は農商務大臣として復帰します。しかし、外務大臣に就任した大隈の条約改正案に不満を抱いたことなどから、黒田内閣の倒閣とともに辞任。その後の明治25年(1892)、第1次松方内閣が行き詰まると、帰郷のため欠席した井上を除く伊藤・黒田・山縣有朋・松方らで会議が行われ、伊藤を後継の首相とすることが確認されました。これ以降、井上は内閣総理大臣の推薦に関与し、元老の一人として扱われるようになります。
第2次伊藤内閣が発足すると井上は内務大臣に就任し、日清戦争後は朝鮮公使に転任して外務大臣・陸奥宗光とともに伊藤を支えました。第3次伊藤内閣では大蔵大臣となりましたが、半年で倒閣したため成果はなかったようです。
渋沢栄一を引き入れられず…
第4次伊藤内閣の崩壊後、井上は大命降下(天皇が後継首相候補に対して内閣組織を命じること)を受けて組閣作業に入ったものの、大蔵大臣に推薦した渋沢に断られてしまいます。渋沢がいなければ政権は運営できないと判断した井上は大命を拝辞し、その後は桂太郎を首相に推薦して第1次桂内閣を成立させました。
以降も井上は国のために奔走し、明治37年(1904)に日露戦争が勃発すると、戦費調達のため国債・外債を募集。明治44年(1911)には維新史料編纂会総裁に任命されています。
日比谷公園で葬儀が行われる
政治家として活躍した井上ですが、大正2年(1913)に脳出血で倒れて以降は左手が麻痺し、車いすでの移動を余儀なくされました。大正3年(1914)の元老会議では大隈を推薦して第2次大隈内閣を誕生させましたが、翌年には体調が悪化し、79歳でこの世を去ります。葬儀は東京・日比谷公園で行われ、遺体は東京都港区・長谷寺と山口県山口市・洞春寺に埋葬されました。
外交政策と条約改正に奔走した
長州藩士として幕末を過ごし、明治維新後は要職を歴任した井上馨。内閣発足後に外務大臣となった彼は、不平等条約改正を目指して鹿鳴館政策などを打ち出しました。結局この政策は失敗におわり、その後、陸奥により領事裁判権が撤廃され、小村寿太郎により関税自主権が回復します。しかし間違いなく井上は、当時の日本の政治には欠かせない人物だったといえるでしょう。
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