NHK大河ドラマ「青天を衝け」、第22回より、いよいよ慶応3年(1867)、渋沢栄一が参加したフランスのパリ万博の様子が描かれる。徳川慶喜の弟・昭武に随行する幕府使節団の一員となった渋沢栄一。飛行機もない当時、その洋行の船旅は60日間にも及んだが、栄一はその船内で、どんな体験をしたのだろうか?
横浜で初めて洋食を口にする
「降って来たような話し、その時の嬉しさは、実に何とも譬(たと)ふるに物がなかった」
自伝『雨夜譚』で、渋沢栄一はヨーロッパ行きが決まったときのことを、こう回想している。生涯で3度、海外へ渡ったが、この洋行が「自分の一身上、一番効能のあった旅」であったとも振り返る洋行。その「出だし」にあたるフランスまでの船旅体験を、渋沢が残した『航西日記』などをもとに紹介してみたい。
いよいよ幕末も最後の年となる慶応3年(1867)の正月を、栄一は大坂から横浜港へ向かう長鯨丸という船のなかで迎えた。
徳川昭武に随行するのは31名。御勘定奉行格外国奉行・向山黄村(むこうやま こうそん)、御作事奉行格御小性頭取・山高石見守、奥詰医師・高松凌雲ら。ほか留学生3名、フランス領事レオン、イギリス公使のシーボルトが案内役として同乗。渋沢は商才を買われて庶務・経理係という、うってつけの役職が与えられていた。
一行が乗る、フランス郵船アルフェー号は横浜に停泊していた。ここで出航を待った。このとき、横浜で渋沢は初めて洋食を食べたという。後年、孫にあたる市河晴子に対し「うまうござんしたよ、只もう御しまいか、もう御しまいか、と思っても、いつが限りかわからなくってねー・・・」(市河晴子筆記・初めて食べた西洋料理の御感じ)と、ごく簡素に述べたものがある。
1月11日、横浜を出航。栄一は船中でフランス語の勉強をするつもりだったが、船の揺れが激しく身が入らない。「自然と怠って、詩作などをして日を送ることとなりました」という有様であった。
フランス船だから、食事は当然ながら洋食。内容はかなり豪勢で、3度のお茶と2度の食事が出された。ハムを「豚の塩漬」、バターについて「ブールという牛の乳の凝(こり)たるを、パンへぬりて食せしむ味甚美なり」などと、その内容を克明に『航西日誌』に書いている。
食後のカフェ・タイムを満喫し、上海では危機感も覚える
「食後。カツフヘエーといふ豆を煎じたる湯を出す。砂糖、牛乳を和して之を飲む。頗(すこぶ)る胸中を爽にす」と、食後のコーヒーも満喫していたようだ。午後5時か6時の夕食後に「あるいは糖もて製せし冰漿」、つまりアイスクリームを食している。ナイフやフォークに苦労した様子もない。当時、洋食になかなか慣れなかった人も多かったなか、27歳の渋沢は何ら抵抗なく、逆に旺盛な好奇心で、それを楽しんだようである。
横浜を発って5日目の1月15日、上海に到着した。アヘン戦争以降、欧米による支配の影響力を強く受けていた上海は、中国人のほか、多くの欧米人が往来していた。街路は汚物などが散乱し、不潔で異臭を放っているという様子も渋沢は記した。「西洋人の支那人(中国人)を使役する有様を見るに、恰(あた)かも牛馬を駆使すると等しく、鞭をもって督呵(とくか)して居る。しかもこの支那人たるや、あえてこれを怪しまないのみか、むしろ当然の如く心得て居るらしい」と、西洋人が中国人を奴隷のようにこき使う有様に危機感も覚えている。
2月7日、セイロン島(スリランカ)。「市中を散策したが、特に珍しいと印象する程のこともなかった」と記すいっぽうで「支那人とは骨相異り、いささか順良。勉力の風あり」とか、住民の姿や皮膚の色、衣服などを事細かに書いた。仏教寺院の涅槃像を拝み、山頂からの眺めを「佳絶」などと、物珍し気に見たようである。
初めて見た「カレー」に興味津々の様子
それ以上に気に入ったのが「産物多し。就中菓物佳品魚類も鮮にて食料頗(すこぶ)る芳美なり。」と、バナナ、オレンジ、マンゴー、サツマイモなどの食材であった。「カレイとて。胡椒を加へたる鶏の煮汁に、桂枝の葉を入るものをまた名物とす」と特筆した。カレーのことであろう。実際に食べたかどうかは分からないが、強い関心を示したようである。
実は、それより3年前(1863)、江戸幕府の遣欧使節団が船内の食事に難儀、一行の岩松太郎などはカレーを見て「飯の上ヘ、どろどろしたイモのようなものをかけ……いたって汚きものなり」と不気味がって避けている。明治4年(1871)、山川健次郎という旧会津藩士がアメリカ留学の船中でライスカレーを注文したものの、カレーは避けて、ライスだけを食べたという。当時の日本人にとって、カレーはそれほどの抵抗感があったのだ。
2月21日、スエズに入港。上陸して陸路カイロに向かう途中、渋沢はスエズ運河の工事を見た。その建設現場を見て圧倒され「すべて西洋人の事を興すや、独り一身一箇のためにせず、多くは全国の宏大な益を謀る」とした。西洋人が、国家の枠を超えて公共事業を進めていることを知り、また同時にその資金を集める方法に思いをめぐらせたようだ。
スエズからアレクサンドリア(エジプト)までの陸路では、初めて汽車に乗った。その車内で、同行者が乗客とちょっとしたトラブルを起こしたときの様子を『昔夢会筆記』から引用しよう。
「アレキサンドリヤへ来る途中、汽車の中で外国人と喧嘩を始めました。蜜柑(みかん)を買って食べては皮を投げる、硝子(ガラス)にぶつかって、隣に居る人の顔へ跳返った。隣の人は、硝子を知りつつ自分を馬鹿にして悪戯をするんだと言うて怒った。こっちは言ひ掛りをすると言うて怒った。よく聴いてみると、硝子に気がつかなかったといふことが分って、始めて大笑をしました、さういふ弥次喜多のやうな話が度々ございました」
同行者が蜜柑の皮を窓の外へ投げ捨てようとして、跳ね返って戻ってきた。日本人は、まだガラスというものを知らなかったのだ。結局、双方とも笑っておしまいになったという。
2月29日、一行は地中海を超えてシチリア島を経由し、ついにマルセイユに到着した。
「同廿九(29)日 西洋四月三日 晴。暁より風西北に転し、朝九時半頃。仏国馬塞里港《マルセール》に抵(あた)る。仏国(フランス)の港口也、先に電線を以て着船を本府に通達しけれハ。我船の岸にいたるやいなや。砲墩にて祝砲を報し。程なく本港の総鎮台バツテーラにて出迎ひ。上陸して馬車に乗らしめ。騎兵一小隊前後を護し。ガランド ホテルド マルセーユ(マルセイユ・ホテル)といふに嚮導し。」
淡々とした筆致ではあるが、とうとうフランスの玄関口に着いたという感激が伝わってくる。仏都・巴里(パリ)に着くのは同年3月7日。西暦では1867年4月11日のこと。渋沢らは、その半年後に「大政奉還」が起こるとは思いもせず、欧州での生活を始める。ともかくも約60日間をかけての陸海の旅体験は、27歳の多感な青年・渋沢栄一の人生を左右するほどの影響を与えるのである。
パリに着いてからも、さまざまな見聞を重ねて渋沢は帰国する。やがて彼は500社以上もの会社創業に関わるが、船内での洋食やコーヒー・紅茶の体験にはじまった、この洋行経験が、そうした事業の原点になったと言って良いだろう。
(文・上永哲矢/歴史随筆家)
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