魯迅というと、おそらく多くの方が中学・高校の国語で習っているのではないかと思います。
彼は中国の近代文学における巨人であり、日本とも深い関わりがありました。今回はそんな魯迅について、日本でのエピソードなどを交えてご紹介します。
魯迅の生涯
1881年、浙江省紹興市に生まれた魯迅は、本名を周樹人と言いました。
早くから西洋文学や哲学に興味を持っていましたが、意外にも最初は理系の道に進んでおり、1902年に国費で日本に留学します。1904年には仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に進学し、医学を学びました。学校初の中国人留学生ということで、学費の免除などの厚遇を受けています。
しかし、突然彼は学校を退学してしまいます。
授業で日露戦争などの幻灯写真(スライド)を見たことがきっかけでした。
その幻灯には、中国人がロシアのスパイとされて殺されるところや、それを止めずに興味ありげにただ見ている中国人の姿があったのです。それに魯迅は衝撃を受け、医学は重要ではないと考えるようになりました。
そのようになってしまった中国人の精神を改造するには、文芸しかないと思ったのです。
1909年に中国に帰国した魯迅は、教師として生計を立てました。
そのころ、古文(書き言葉)から白話(話し言葉)への転換を進める「文学革命」が起こり、魯迅はその波に乗って「狂人日記」、「孔乙己」、「阿Q正伝」などの作品を発表します。
1926年に抗日を叫ぶ学生たちが軍に殺されると、魯迅は公然と国民党政府を批判し、指名手配のひとりとなって潜伏生活を余儀なくされました。この辺りから、政府に目を付けられるようになっていくのです。
上海に戻った魯迅ですが、政府に目を付けられたためにたびたび発禁処分も受けるようになっていました。
しかし彼は文学者・思想家として国民党の独裁を批判し続けたのです。
1936年、魯迅は持病の喘息の発作により急死しました。55歳でした。多くの文学者や知識人がその死を惜しんでいます。
日本での出会い
仙台医学専門学校時代に、魯迅には大きな出会いがありました。それは恩師・藤野厳九郎との出会いです。
魯迅の作品には「藤野先生」という短編があります。これはまさにその藤野厳九郎との交流を回想した作品なのです。
中国からやって来て間もない魯迅が講義を受けていると、藤野先生はノートが取れるかと尋ねます。
どうにか、と答える彼に、藤野先生はそのノートを寄越すようにと言い、持ち帰ってすべて添削してくれたといいます。それは魯迅が学校を去るまで続いたのです。
魯迅が帰国する際、藤野先生は自分の写真の裏に「惜別」の文字を添えて贈りました。これは現在、北京の魯迅博物館に展示されています。
こうしたエピソードに刺激を受けて、太宰治もこの事実を踏まえた「惜別」という作品を書いていますよ。
なぜ日本人は魯迅が好きなのか
実は、魯迅の作品は中国よりも日本で読まれているようです。
というのも、最初に触れたように、日本では国語で魯迅を必ず学んでいます。魯迅の作品は難しいと言われますが、教科書で取り上げる「故郷」などは読みやすい作品なので、私たちは魯迅という作家に入っていきやすい土壌があるのだと思います。
また、中国近代文学の先頭に立った偉大な彼が、ここ日本でスタートを切ったという親近感があるのでしょう。
たしかに、魯迅の作品は難しい部分があるものもありますが、当時の社会背景などを踏まえて読むと、魯迅の考えが見えてきます。これをきっかけに、読んだことのない魯迅の作品にトライしてみてはいかがでしょうか。
(xiao)
関連記事
キングダムから三国志まで!3分で分かる中国の歴史
中国史上最も愛された最強の英雄・岳飛
コメント