【オスマン帝国の歴史を学ぶ】壮麗王スレイマン1世と「女人の統治」

世界史
【オスマン帝国の歴史を学ぶ】壮麗王スレイマン1世と「女人の統治」

2017年8月よりチャンネル銀河で日本初放送をスタートする宮廷歴史ドラマ『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~』。日本人にとってあまり馴染みのない、スレイマン1世時代のオスマン帝国を舞台にした同作品を楽しむために、日本語字幕の歴史考察を担当した松尾有里子氏にその歴史背景や作品の魅力について語ってもらった。

「壮麗王」の時代のもうひとつの「物語」

オスマン帝国史上、一般にその名を知られるスルタンといえば、1453年にビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服した「征服王」メフメト2世と、16世紀にウィーンを包囲しハプスブルク家と対峙した「壮麗王」スレイマン1世であろう。

両者ともヨーロッパとの激烈な戦いを制した勇猛な支配者ながら、スレイマン1世(在位1520-1566)が今なお、優美な通り名で呼ばれるのはなぜか。それは彼が治世中、寵妃ヒュッレム、ロクソランとも呼ばれた美女に翻弄された横顔が広く伝えられていたからではないだろうか。アングルの絵画「トルコ風呂」に代表されるように、壮麗王の時代は後のヨーロッパの芸術家たちの想像力をかき立てる「オリエンタリズム」の源泉となり、艶麗な女人たちが暮らすオスマン後宮(ハレム)の様子は絵画や音楽の題材として盛んに描かれた。

『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~』は、このようにともすればヨーロッパ人の偏見のもとに伝えられがちであった壮麗王時代のもう一つの顔を、トルコのアングル(視角)からとらえなおし、活写した歴史ドラマともいえる。アカデミックな時代考証も一部取り入れつつ、初めてトプカプ宮殿での撮影を敢行する等して、人びとの空想の中にあったオスマン帝国のハレムと女性たちをリアリティある歴史上の人物として蘇らせることに成功している。

「壮麗王」と呼ばれたスレイマン1世

ヒュッレムの魅力

ドラマは、スレイマン1世の即位と少女時代のヒュッレムが奴隷として黒海北岸の港町カッファから船でイスタンブルに送られる場面から幕を開ける。ヒュッレムの出自については諸説あるが、彼女が「ロシア女」と宮廷内外で呼ばれていた事実から、16世紀前半においてポーランド王の管轄下にあったルテニア(現ウクライナ)の出身と考えられている。後宮入りした当時、15歳に満たぬ少女であったとされるが、彼女の美声と機知に富む会話は周囲の者を明るくさせる不思議な魅力を備えており、源氏名として「陽気」を意味するヒュッレムと名付けられた。

彼女はのちに後宮の女性ながらスレイマン1世の公妃として5人の皇子と1人の皇女の母となりハレムをとり仕切る一方、その豊かな知性でときには内政、外交問題についてスルタンに助言をしたという。ヒュッレムが当時の国際情勢に鑑み、友好のためポーランド国王へ送った2通の書簡は有名である。ドラマはヒュッレムの出世物語を軸に展開していくが、彼女の視点と幅広い活動を通じて、視聴者が壮麗王の時代を追体験できるのも、大きな魅力であろう。

後宮の女性からハレムの頂点に上り詰めたヒュッレム

ハレム制度の成立

スレイマン1世の即位時、イスタンブルの宮廷では、スレイマン1世の生母であるハフサ・ハトゥンが、「母后」(ヴァーリデ・スルタン)として崇敬の対象となるとともに後宮の女性たちを統括する役を担っていた。先王の妃が「母后」として宮廷内にとどまるのが慣例となるのはこの時代からと言われる。これは帝国の主権が原則、男系の世襲によって維持される以上、後宮組織そのものが国政を支える不可欠な制度として重要な意味を持ち始めたからであろう。事実、16世紀中葉以降、ハレムは母后を筆頭格に女性のみが参加する独自の階層化社会を築いていく。

オスマン帝国時代のハレム

捕虜や奴隷市場を介して後宮入りをした娘たちは、「新参者(アジェミー)」として、宮廷内の学校でトルコ語の習得、宮仕えをするうえで必要な技能、教養を厳しく教育された。ここで晴れて「合格」した者だけがスルタンへの奉仕が許された。彼女たちの中には、スルタンの覚えめでたく「お気に入り(ギョズデ)」となり、寵愛を受ける「幸運なる者(イクバル)」として「スルタンのお部屋付き(ハス・オダルク)」となって、特別な地位を得る女性もいた。

ヒュッレムがスレイマンの寵愛を得て、このハレムの階梯を登り始めた頃、母后に次ぐ地位にはバシュ・カドゥンと呼ばれた実質的な「第一夫人」が存在した。スルタンとの間に皇子ムスタファを儲けたマヒデヴラン妃である。マヒデヴランはスレイマンが皇子時代、マニサの県知事を務めていた頃からの愛妃であった。ヒュッレムは1521年にメフメトを出産、さらに4人の皇子を儲けた。オスマン宮廷では、これまで寵姫といえども皇子を儲けるのは原則一人までと暗黙ながら決められていたから、この度重なる出産はマヒデヴラン妃との間に緊張と対立を生んでしまう。その結果、ヒュッレムには皇子の母として新たにハセキという称号が付与され、後宮では今後、皇子を産んだ女性は等しくこの称号で呼ばれるようになり、母后に次いで絶大な権威を帯びる地位となった。このように、スレイマン1世期のハレムは次代のスルタンを輩出する機関としての役目が明確化する一方、そこに住まう女たちは次代の母后を目指して権力闘争に身を投じていくようになった。

ドラマでは皇帝の寵愛を巡るマヒデヴランとヒュッレムの対立にも注目

「女人の統治」時代の始まりとその実像

ヒュッレムが活躍した16世紀後半から17世紀中ばにかけては、「女人の統治」と呼ばれ、ハレムの女性たちが宮廷内外の諸勢力と結託し、国政に干渉した特異な時代として知られる。16世紀末期のシェイヒュルイスラム(「イスラームの長老」)のスンヌッラーフ・エフェンディは、この後宮の女人たちの政治への介入は帝国の主権を脅かし、ひいては帝国の衰退を招くと痛烈に批判した。

しかしながら、このような同時代人の内部批判は、その背景をよく考える必要がある。オスマン帝国史上、スレイマン1世治世の後半は、中央集権的支配体制がほぼ確立し、それを支える高度に組織化された官僚制に、スルタン自身が取り込まれていく、いわばオスマン支配の変革期を迎えていたとされる。ヒュッレムが暗に関わったとされる後宮内外の権力闘争、例えば、マヒデヴラン妃の放擲(ほうてき)、その皇子ムスタファの処刑、スルタンの腹心イブラヒム・パシャの暗殺なども、スルタンの求心力や主導性が失われつつある事情を象徴する事件であったともいえるだろう。

ヒュッレムが活躍した時代は「女人の統治」と呼ばれた

「女人の統治」時代のハレムでは、皇子たちはかつてのように帝王学を身につける目的で県知事として地方へ派遣されることはなかった。幼少期から成人を迎えても母とともに「鳥かご(カフェス)」の後宮で暮らし、次代のスルタン候補として大切に育てられた。したがって、皇子たちの一部には脆弱な身体のうえ、精神に異常をきたす者も現れた。17世紀のスルタン、イブラヒム(在位1640-1648)は、即位時から暗殺の恐怖に怯え、神経衰弱の余り精神を病んでいたという。政治に無関心で奇行を繰り返したため、廃位させられてしまったほどである。

しかしながら、近年のオスマン史研究では「女人の統治」を単に帝国衰微の元凶として捉えるのではなく、支配の変革期に出現した歴史的意義を考察しようとする動向もある。例えば、母后はスリッパ料と呼ばれた多額の給与を領地や金品のかたちで与えられていたが、その潤沢な資金を衣服などの個人の奢侈品に消費するばかりでなく、むしろその多くを寄進し、モスク、公衆浴場などの建設にあてていた。ヒュッレムや皇女ミフリマーは、建築家スィナンに命じて、首都に宗教的建造物を数多く作らせたことでも知られる。「女人の統治」がどのように描かれるかも関心の的となるであろう。

関連記事:【オスマン帝国の歴史を学ぶ②】終わりゆく壮麗王の世紀

松尾有里子
東京大学東洋文化研究所特任研究員。専門はオスマン帝国史。ドラマ『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~』の日本語字幕における歴史考察を担当。

 


「オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~」シーズン4
放送日時:2020年8月3日(月)スタート 月-金 深夜0:00~ ※第1、2話スカパー!無料放送
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/ottoman/
出演:ハリット・エルゲンチュ(スレイマン)、ヴァーヒデ・ペルチン(ヒュッレム)、オザン・ギュヴェン(リュステム)、メフメト・ギュンシュル(ムスタファ)、ヌル・フェッタフオグル(マヒデブラン)、ペリン・ベキルオウル(ミフリマーフ)、アラス・ブルト・イイネムリ(バヤジト)、エンギン・オズトゥルク(セリム) ほか
制作:2013-2014年/トルコ/字幕/全93話

※2020年7月29日放送日時更新

画像:『オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム~』©Tims Productions


 

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