【最後の帝国・清ができるまで】滅びゆく明の弱体化は秀吉のせいだった?

世界史

チャンネル銀河で2019年5月22日(水)から放送をスタートする、中国歴史ドラマ「皇后の記」。今回、日本初放送となるそのドラマをより楽しんでいただくため、作品の舞台となる「清」という国の成り立ち、首都を北京に置いた理由や、中国の歴代王朝の首都の移り変わりなどを、簡潔にではあるが解説したいと思う。

清の創設者、ヌルハチは石田三成と同世代!

後金を建国したヌルハチ

中国史上最後の帝国「清」という国は、その前王朝である明を、直接打倒して建国されたわけではない。元々は女真族という中国の東北部、いわゆる「満州」を支配していた遊牧民族だった。女真族は13部族に分かれて相争っていたが、これを1616年に統一したのが、ヌルハチという猛者であった。

ヌルハチの生まれは1559年。その翌年、日本では織田信長が今川義元を破った「桶狭間の戦い」が起きている。石田三成や直江兼続が生まれた頃(1560年)でもある。

ヌルハチは生まれつき力が強く、かつ聡明な男だったが、9歳のときに母親が亡くなり、継母と折り合いが悪く、家を飛び出した。そこで母方の祖父・ワンカオに引き取られることとなった。

ワンカオも武勇に優れる英傑であったが、明国との戦いに敗れ、殺された。ヌルハチも捕らわれたが、からくも逃げ切った。その後、25歳になったヌルハチは兵を挙げ、1616年に敵対勢力を討ち平らげ、女真族を統一する。同年、彼は明に対抗しようと、国号を「アイシン=後金」と定めて帝位についた。

秀吉の朝鮮出兵が、明を弱体化させていた?

天下人・豊臣秀吉

ヌルハチが明国に対して攻勢に出たのは、明が弱体化を見せていたからだった。さもなければ女真族の統一もできなかっただろう。実は明の弱体化を招いたのは、かの日本の太閤・豊臣秀吉朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が大きく関係していた。

当時、北京を首都に置く明の皇帝は第14代・万暦帝(ばんれきてい)。相次ぐ反乱と、時期皇帝の座をめぐる後継者問題に悩まされていたところへ、秀吉が派遣した日本軍が朝鮮半島へ侵攻してきたため、万暦帝は援軍を出した。当時、明は李氏朝鮮の宗主国であったし、もし日本軍が朝鮮を占領する事態になれば、明とて安穏としてはいられなかったからだ。

寧夏(ねいか)、播州(はしゅう)で起きた乱の鎮圧に加え、二度にわたる朝鮮への援軍派遣は「万暦の三大征」と呼ばれた。特に朝鮮への派兵は十数万を数え、そのために軍費が嵩んで明の国庫を圧迫した。もし、秀吉が朝鮮出兵をしていなければ、明はもう少し長く存続し、清の誕生もなかったかもしれない。

万暦帝はそうした難局に嫌気がさしたのか、現実逃避のためか、重税を課して奢侈な生活を送る。皇族の結婚式に莫大な金をつぎ込むなどの贅沢を行ない、後宮にこもりきりとなるなど、政治を省みなくなった。

ヌルハチの乱は、こうした情勢下で行なわれた。1618年、明に対して宣戦布告し、遼東地区(満州)一帯を平定。1625年には瀋陽(奉天)まで進出し、そこを盛京(せいけい)と称して都とする。まさに快進撃を見せた。

ところが、翌1626年、寧遠の戦いで明軍が繰り出してきた大砲の前に苦戦。大敗を喫してしまう。みずからも砲弾によって背中を負傷し、同年にあえなく世を去った。

ヌルハチの孫の代に明が滅び、首都・北京を奪う

ヌルハチの子・ホンタイジは国号を「清」と定めた(『皇后の記』より)

その後、ヌルハチの志は子のホンタイジ、さらにその子のフリン(順治帝)へと引き継がれる。ホンタイジは朝鮮を攻撃して支配下に収め、さらに内モンゴルを制圧。1636年に国号を「ダイチン」(大清=清)と定めると、民族名を女真から満州と改め、皇帝の座についた。しかし、中国東北地方と中心部を隔てる山海関(さんかいかん)から西へは進出できず、北京進出は次代に委ねられた。

1644年、フリン(順治帝)の代となり、明の内部で大規模な農民反乱「李自成の乱」が起き、ついに明は滅ぼされた。李自成は「順」を国号とし、北京へ入城、制圧した。それを順治帝の叔父ドルゴンが打ち破って北京を奪い取った。まだ明の残存勢力(台湾の鄭成功など)が残ってはいたが、ここに清は中国の実効支配を始めたのである。

「摂政王」と呼ばれたドルゴンは、清が中華王朝となるにあたって大きな功績を残した(『皇后の記』より)

順軍を破ったドルゴンは、北京の統治を進め、漢民族にも辮髪(べんぱつ)をするよう布令を出した。頭髪を剃りあげ、残った一部の毛髪を伸ばして三編みにし、後ろに垂らすという有名なヘアスタイルだ。拒否する者は死罪とするが、従う者には元の生活を安堵するという徹底した政策だった。以後、清の滅亡まで中国人が辮髪となったのはこのためである。

そして清は以後、約270年という永きにわたって中国を支配する。そして、ラストエンペラーこと溥儀(ふぎ)の代の1912年まで続いていく。

なぜ近世、北京が重視されたのか?

さて、これまでに述べた通り、清は北京を首都として長期政権を布いた。その理由としては、もちろん前政権である明が北京を都としていたのを奪ったことがまず第一にある。加えて清(元は女真族)の元の領地である東北部に近いためでもある。もともと北方から来た遊牧民なので、首都は北に位置していたほうが都合が良かったのだろう。

その流れは、クビライ(チンギス・ハンの孫)が樹立し、1271年に中国を侵略支配した「元」に始まった。北方のモンゴルから来た遊牧民である彼らは、それまで西の長安や東南の南京にあった首都を北京に初めて動かし、大都(だいと)と定めた。カラコルムに代わってモンゴル帝国の本拠地とし、多くの中華文明を吸収したのである。

その後の明は、朱元璋(しゅげんしょう)が南京に都を置いたが、外征に力を注いだ第3代・永楽帝が1403年に北京に戻し、紫禁城を完成させた。中華の人々から見れば、異民族が樹立した国家である元・清が特に北京の存在を重要視し、その後も繁栄させていった。以後、北京は清が滅亡するまで首都として機能し、その後の中華民国や中華人民共和国にも引き継がれている。

文・上永哲矢


中国歴史ドラマ「皇后の記」
放送日:2019年5月22日(水)放送スタート 月-金 夜11:00~
リピート放送:2019年5月23日(木)放送スタート 月-金 午前9:30~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/kougounoki/

画像:『皇后の記』©The Great Wall film and television


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