「傾国の美女」なんていう言葉がありますね。語源は中国ですが、文字通り国を傾けるほどの影響力を持った美女のことをいいます。
一方、平安時代に後宮を彩った女性たちの美しさは後世と比べるべくもなかったでしょう。そんな女性たちの中から、特に男性を惑わせた美女2人の生涯をご紹介します。
悪意なく天皇家を惑わせた后「待賢門院璋子」
鳥羽天皇の中宮・藤原璋子(後の待賢門院)は、権大納言・藤原公実の娘として生まれました。7歳で父を亡くし、幼少時に白河法皇とその寵姫・祇園女御の養女として引き取られます。大変な美少女だったそうです。
1117年、璋子は17歳で白河法皇の孫である鳥羽天皇の元に入内します。その後天皇との間に5男2女をもうけますが、彼女には常にある噂が付きまとっていました。
それは、彼女が好色な白河法皇と入内前から男女の関係にあり、入内後も続いているのではないかということでした。実際、入内前には他の貴族の息子との縁談があったのですが、璋子の素行にまつわる噂により破談となっています。
法皇と通じたというだけではなく、低い身分の者を屋敷に引き入れたりしたという話もありました。加えて、顕仁親王(後の崇徳天皇)が誕生した時、鳥羽天皇は「この子は叔父子(祖父の子)だからな」と言い、冷淡な態度を示したと言われているのです。
白河法皇が没すると、鳥羽上皇(天皇を譲位し上皇につく)が権力を握ります。彼は当てつけのように若く美しい妃を寵愛し、璋子はやがて居場所を失っていきました。
しかし、鳥羽上皇は彼女との間に7人の子がいましたし、愛情がなかったとは考えられません。また、彼女が亡くなる際には屋敷に駆けつけ、泣きながら仏具を打ち鳴らしてその最期を看取ったそうです。
また、歌人の西行(当時は佐藤義清)も璋子を慕っていたと言われています。彼女と一度きりの関係を持ったという逸話まであるのです。
祖父ほど年の離れた法皇や鳥羽上皇、西行まで虜にした璋子。彼女に権勢欲はほとんどなかったようですが、彼女の存在によって天皇家が混乱したのは間違いありません。
政権を揺るがせた美貌の女官「藤原薬子」
桓武天皇の重臣である藤原種継の娘・薬子(くすこ)は、中納言・藤原縄主と結婚して3男2女の母となっていました。
その頃、長女が皇太子・安殿親王(後の平城天皇)の後宮に入ることとなり、薬子はそれに付き添っていきます。ところが、皇太子が見初めたのは若い娘ではなく母親の薬子だったのです。
薬子には夫がいたため、当然不倫の関係です。それを知った桓武天皇は激怒し、薬子を宮中から追放しました。
しかし桓武天皇の死後に平城天皇が即位すると、事態が一変しました。平城天皇は、薬子を呼び戻します。そして尚侍(ないしのかみ)という官位を与え、夫の縄主を九州へ左遷してしまったのです。
障壁のなくなった2人は公然と愛人関係を続け、薬子は天皇の寵愛を武器に政治に介入し始めました。そして、薬子の兄・仲成も加わり、周囲の評判は相当悪かったようです。
ところが、天皇が病により弟の嵯峨天皇に譲位。平城天皇が上皇となったことで、問題が発生しました。平城上皇は平城京、嵯峨天皇は平安京に居を構えたのです。朝廷が2つ存在するという異常事態となり、薬子と仲成は平城京に遷都を企てました。
それを聞いた嵯峨天皇は仲成を捕えて死刑にし、薬子の官位を剥奪する詔勅を下しました。これは平安時代に死刑執行をした数少ない事例です。保元の乱(1156年)で源為義が死刑になるまで約350年間執行されませんでした。それ程の一大事だったということですね。
平城上皇と薬子は挙兵を試みますが、それも嵯峨天皇に阻まれます。
観念した上皇は出家し、薬子は毒を仰ぎました。この他にも多くの者が連座し、罪に問われたのです。平城上皇と嵯峨天皇の争いにより朝廷が2つ存在するという異常事態、その一因となった薬子。死をもって、一連の「薬子の変」は終結しました。
平安時代という「平安」を揺るがせた彼女たちが、多くの男性を虜にしたことは事実です。いったいどれほどの美貌だったのでしょうか?
華やかな宮中絵巻の中には、まだまだ多くの美女がいるはずです。他にも同様の事件が多々起きていたかもしれませんね。
(xiao)
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