【尊王攘夷?公武合体?】幕末の流れを思想で理解する

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【尊王攘夷?公武合体?】幕末の流れを思想で理解する

ペリーの黒船来航によって200年以上続いてきた日本の鎖国政策は大きな転換を迫られました。そのような緊迫した状況の中、尊王攘夷思想をはじめとしたさまざまな思想が国内に広まっていきます。今回は、江戸末期に広まり、明治維新という革命へとつながる要因となった思想についてご紹介していきます。

 

幕末の動乱を招いた黒船来航

嘉永6年(1853)、ペリー率いる黒船が浦賀沖に停泊し、江戸は大騒ぎとなります。幕府が受け取ったアメリカ大統領からの親書には、交易の開始、漂流民の救助、アメリカ船舶への補給を要求すると書かれていました。嘉永7年(1854)に再来したペリーは、江戸幕府に対して長崎以外の港の開港、領事の駐在などを要求し、結局、幕府は下田と箱館(現在の函館)の開港を認め、日米和親条約を結びます。その後、下田に着任したアメリカ総領事ハリスは幕府との交渉を進め、安政5年(1858)には日米修好通商条約が締結、自由貿易が開始されました。自由貿易の開始は物価上昇を招き、人々の生活はしだいに苦しくなっていきます。また、異国からの圧力に屈して開国した幕府の弱腰な姿勢に不満をもつ武士たちの中では、実力行使をもって異国を打ち払おうという「攘夷」の声がしだいに大きくなっていきました。

ペリーと交渉する役人
ペリーと交渉する幕府の役人の様子。オランダ語を介していたそうです。

幕末に広まった思想や考え方

黒船の来航をきっかけに、国内では尊王攘夷思想が急速に広まっていきます。一方、弱体化していく幕府は政局の安定を図るため、朝廷と結び付きを強める公武合体を推し進めようとしました。しかし、時代の流れに抗うことはできず、世論はやがて倒幕へと傾いていったのです。

尊皇攘夷とは

尊王論とは文字通り天皇を尊ぶ思想で、攘夷論は外国を退けようとする思想です。いずれも中国の儒教に由来しており、江戸時代をとおして存在する考え方でした。この2つをあわせた尊王攘夷論が19世紀初めの水戸藩で唱えられると、広く世に知られるようになります。特に、⽔⼾藩の学者・会沢正志斎(あいざわせいしさい)が記した「新論」における尊王攘夷論は後進に大きな影響を与えました。ペリー来航により西洋からの危機意識が急速に強まる中で、こうした尊王攘夷思想が下級武士層や村落指導者の間にまで広まっていったのです。当時の孝明天皇がかなりの外国人嫌いだったこともあり、朝廷側も尊王攘夷論を支持し、幕府に強気な態度をとるようになっていきます。

会沢正志斎の肖像画
会沢正志斎。藤田東湖らとともに、水戸藩で活躍した人物です。

尊王攘夷思想を掲げた中でも、特に急進的だったのが長州藩でした。吉田松陰(よしだしょういん)が主宰した松下村塾(しょうかそんじゅく)でその薫陶を受けた高杉晋作(たかすぎしんさく)久坂玄瑞(くさかげんずい)伊藤俊輔(博文)らが中心となり、長州藩は朝廷に攘夷を迫っていきます。そしてついに文久3年(1863)5月10日、下関海峡に停泊していたアメリカ商船ペンブローク号を「攘夷」と称して砲撃したのです。しかし、報復のためにやってきたアメリカ・フランス艦隊によって大敗(下関戦争)し、攘夷の無謀さについて身をもって思い知らされると、やがて開国へと藩論を転換していきました。

公武合体とは

公武合体とは、外圧に対抗すべく、朝廷と幕府との協調によって政治体制の安定化を図ろうという考え方です。本来、将軍は天皇より国政を委任され、その職任として日本国を統治していました。しかしペリー来航後、幕府は条約締結の勅許を朝廷に求めたため、朝廷が政治に関与する余地を与えてしまいます。そこに尊王攘夷派が朝廷に働きかけたため、朝廷と幕府の対立が急速に進んでいたのです。桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺された後に幕府の実権を握った老中首座・安藤信正らは、この危険な状況を打破するために、朝廷との融和を目的として第14代将軍・徳川家茂と孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)との結婚を画策しました。

しかし、こうした動きを尊攘派の志士たちは天皇の妹を人質にとったと非難し、ついには老中・安藤の暗殺を計画(坂下門外の変)。暗殺は失敗したものの、その際に背中を斬りつけられたことが武士にあるまじき行為として非難され、安藤は老中辞任に追い込まれます。安藤の失脚により幕府主導の公武合体運動は頓挫し、家茂と和宮の結婚もほとんど意味をなさないものとなってしまいました。

和宮の肖像画
和宮の肖像画

開国派とは

国内では異国を打ち払えという尊王攘夷論が広まりましたが、勝海舟をはじめとした開国派は世界の大勢をみて攘夷が不可能なことを理解し、早くから開国を主張していました。そのため、尊王攘夷派からは日本を外国に売ろうとする極悪人と思われていたようです。当初は尊王攘夷思想を抱いていた土佐藩の坂本龍馬も、勝海舟との出会いを経て、開国や国防の重要性を強く感じるようになっていきました。

勝海舟の写真
勝海舟は咸臨丸の艦長として1860年にアメリカへ渡りました。

倒幕派とは

公武合体の限界を感じ、雄藩連合による新政権樹立を構想していた西郷隆盛大久保利通ら薩摩藩でしたが、やがて幕府に見切りをつけ、武力行使による倒幕を決意します。そんな中、坂本龍馬の仲介により長州藩との薩長同盟が成立。そして公家の岩倉具視(いわくらともみ)と連携し、慶応3年(1867)10月13日に朝廷から薩長へ第15代将軍・徳川慶喜討伐の詔「討幕の密勅」を出させることに成功します。

しかし、同日に徳川慶喜は二条城大広間に在京の諸藩重臣を招集し、土佐藩が坂本龍馬の船中八策をもとに作成した大政奉還建白書を受け入れ、政権を返上することを宣言します。翌日14日に慶喜が朝廷に大政奉還を上奏し、260年あまり続いた徳川幕府が終わりました。幕府がなくなったことで倒幕派の大義名分は失われ、武力衝突はいったん回避されます。しかし、大政奉還だけでは幕府の力は温存されると考えた倒幕派たちは、同年12月9日に「王政復古の大号令」を発布させます。そして慶応4年(1868)1月3日、鳥羽・伏見で薩長を中心とした新政府軍が旧幕府軍と激突、戊辰戦争が始まりました。

鳥羽・伏見の戦いの図
鳥羽・伏見の戦い(慶長四年太功記山崎之図)

佐幕派とは

佐幕とは「幕府を補佐する」という意味で、徳川幕府のために戦った人々のことを指します。佐幕派の中心となったのは会津藩でした。会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)は、⽂久2年(1862)、幕府の要請を受け入れて、尊王攘夷派による騒動が続いていた京都の治安維持の任に当たる京都守護職に就任します。その松平容保お預かりとして誕生したのが局長・近藤勇率いる新選組でした。会津藩や新選組は、戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられ多くの犠牲を払いながらも、徳川幕府への忠誠を貫き戦い続けます。しかし、会津藩は会津戦争で降伏、新選組も散り散りとなり、最後まで戦い続けた副長・土方歳三は箱館戦争で命を落としました。1年半にわたり繰り広げられた戊辰戦争も、ここに終結したのです。

松平容保
藩主・松平容保は最後まで幕府への忠義を貫きました。

一筋縄ではいかない幕末の思想

このように黒船来航を契機とした動乱の幕末には、さまざまな思想や考え方がありました。しかもそれぞれが掲げる思想は常に同じではなく、薩摩や長州のように時勢とともに変化していく場合もあったのです。こうした思想の変化が、幕末の理解を難しくする一つの要因だと思われます。一方で会津藩や新選組のように最後まで考え方を変えず、武士道を貫いた人たちもいました。時代の流れの中で、その考え方を変えた者と変えなかった者。歴史は勝者と敗者を分けることになりましたが、自らの信念のもとにその命を懸ける姿は、明治維新から150年たった現在も私たちの心を熱くさせてくれるのです。

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