北海道は、2018年に命名150年を迎えました。これを記念し、「ほっかいどう百年物語」という番組でこれまで数多くの北海道の偉人たちを紹介してきたSTVラジオによる連載企画がスタート。第2弾は、世界地図に名を残した唯一の日本人 間宮林蔵(まみやりんぞう)です。
間宮林蔵は「間宮海峡」を発見した探検家です。江戸時代後期、樺太は島か半島か、世界的にもまだ判明はされていませんでした。それを世界の探検家にさきがけて、その実態を明らかにし、世界地図に唯一名を残したのが、この間宮林蔵でした。
世界の探検家たちが讃えた「間宮海峡」
「間宮海峡」。これは外国人が描いた世界地図の上に、日本人がその発見者として示されているただひとつの地点の名です。
今からおよそ200年前、まだサハリンが樺太と呼ばれていた時代、世界地図の上で、北極、南極を除いて最後まで不明だったのは、樺太の北部、特に樺太とシベリア大陸との関係でした。「樺太は島か半島か」この問題は世界的に関心を集めましたがヨーロッッパから遠く離れた極東の地であり、世界中のどの探検家もまだ足を踏み入れることができず、その謎を解き明かすことはできませんでした。
それをただ一人、命を賭けた探検の末に「樺太が島である」ことを突き止めたのが、日本人である間宮林蔵でした。彼の功績は日本探検史空前の快挙であり、世界の探検家達は彼を讃え、樺太とシベリアとの間にある海峡に「間宮海峡」という名をつけました。この発見によって、世界地図はさらに詳しいものとなっていったのです。
大きな志を胸に秘めて
ロシアの南下が日増しに激しくなり、松前藩が初めて樺太の経営に着手したのは、1790年、このとき間宮林蔵は、茨城県で、貧しいながらも立身出世の志に燃えた、16歳の少年でした。生家は農業と桶の箍(たが)作りを兼業していたため、生計は他の農家に比べるとまだ楽な方でしたが、それでも身分制度が厳しい江戸時代、出世の道が皆無に等しい「農民の子」であることには間違いありませんでした。この壁が、彼の反骨精神を養うこととなってゆくのです。
天明の大飢饉での食糧難や身分差別の辛らつさを幼い頃から味わってきた林蔵は、将来は誰よりも「立派な人間になること」を望んでいました。生まれつき数学的才能に優れていた彼は、遊び方も他の子供達とは違っていました。
「林蔵くん、その竹ざおをどうするのだね?」
「これで木の高さを測ったり、距離を測ったり、川の深さを測るんです」
「そんなことをしてどうするんだい?」
「だって、僕ひとりの工夫で、今までわからなかった道の幅や川の深さが測れたら楽しいじゃないですか」
「林蔵くんは変わった子だなぁ」
また、我慢強いことでも有名でした。村人達とともに筑波山のお社に参詣した時のことです。
「林蔵くん、どうしたんだね?あんたが帰ってこないから皆心配していたんだよ」
「ごめんなさい、岩屋にこもって手に油をたらし、明かりを灯していました」
「なんだい!手のやけどがひどいじゃないか。まさか油がなくなるまで我慢していたのかい」
「はい、立派な人になれますようにとお祈りしていました」
「林蔵くんはいよいよ変わった子だ」
ある日家の近くの堤防工事を見ていた林蔵は、役人に向かってこんなことを言います。
「そのやり方では、正確な深さは測れませんよ。こういうふうにしないと、また崩れて洪水になってしまいます」。はじめは相手にしなかった役人も、この少年の説明に次第に耳を傾け、言う通りに工事を行いました。
「おまえは頭がいいのう。どうだ、江戸に出てその才能を幕府のために役立てないか?」この役人が、のちに林蔵の恩師となる測量役人の村上島之允(しまのじょう)でした。
「よし江戸へ出よう、江戸へ行って人一倍勉強して、僕はきっと日本一の立派な人間になる!」一農民の息子が、大きな志を持って江戸に向かったのは、16歳の時でした。
幕府の測量役人である村上は、林蔵を伴って日本中を歩きました。その距離は一日120キロ、それが10日も20日も続くのです。しかも林蔵は、村上の使う測量の器械を担いで歩かなければなりません。
「先生、もうだめです。歩けません・・・」
「ばかもの!これくらいでへこたれるやつがあるか!」
叱られ、時には殴られながらも、丁寧に本格的な測量技術を教えこまれた林蔵は、体の丈夫さと忍耐力を身につけ、そして測量の腕をめきめきとあげていきました。また、樺太がまだ誰も探検を達成していない土地だということを知ったのも、この頃でした。「それなら自分がその偉業を成し遂げたい」。その大きな野望が、彼の生きる目的として、その後の人生を支えていったのです。
1800年代に入り、ロシアはしきりに蝦夷地に接触を始めたため、幕府は村上らに調査を命じました。その中には、弟子の林蔵も含まれていました。この時林蔵25歳、初めて蝦夷地に渡った彼の仕事は、探検ではなく、植林調査でした。広大で厳しい北海道の大地は彼の冒険心を掻き立てました。丹念に調査しその結果報告として「蝦夷地には杉やヒノキを植えるべき」と進言しました。これが認められ、林蔵は幕府から「蝦夷地御用雇」を任命されます。「早く日本一の人物になって樺太探検をしたい」。相変わらず彼の胸の奥では、野望が渦巻いていました。しかし彼はまだ幕府の雇い人という低い身分にすぎず、樺太探検を誰かに先越されないかと、焦りは募る一方でした。
樺太探検隊に任命される
蝦夷地が戦場となった林蔵は、はじめに択捉や国後の実地調査を行いました。しかし、この頃からロシアとの戦争は避けられなくなっていきます。日本は以前から択捉島を日本の領土であると宣言していましたが、ロシアは村を焼き払い、ロシアの領土だと宣言。まさに一触即発の状態でした。
1807年、林蔵が択捉島で測量をしていた時に、ついに戦争は、ロシアの襲撃という形で起こりました。
「ロシアの軍隊が近づきしだい、攻撃すべきです!」
「間宮君、我々に指示をするな!少し様子を見る」
「それではやられてしまいます!ほら、住民の家に火を付け始めたではないですか!みんなつかまってしまいますぞ!」
「うるさい!お前はよけいなことを言わないで弾薬の心配でもしておれ」
しかし、林蔵が敵に向かって駆け出そうとした時、突然退却命令が出ました。
「馬鹿を言ってはいけない!」
「退却〜退却〜」
「これでは日本の、武士の恥だ。くっ・・・なんとも無念!」
林蔵はくやし涙に暮れました。択捉島の戦争は、こうして日本の負け戦に終わり、幕府はいよいよロシアが日本に攻めてくると大慌て。しかし一方で、林蔵の名前はにわかに有名になりました。
「間宮林蔵と申す男、300人の役人の中で、ただひとり退却を拒んだそうな。身分は低いが上級武士たちの及ばぬ働きをしたという」
幕府は北方の守りを固めるため、ついに樺太の探検を決めました。しかし樺太は道なき道、うっそうとした森が続くといいます。よほど慣れた者でなければ達成できない。そこで選ばれたのが33歳の間宮林蔵でした。
「ついに樺太に行ける!世界中の有名な探検家がまだ足を踏み入れることができず謎のままになっている樺太に!もし私が実態をはっきりさせることができれば、世界に大きく貢献して、名を残すことができるぞ!」
樺太探検隊に選ばれた間宮林蔵は出発の日、このように決意を表しました。
「探検に成功しない限り、私は死んでも帰ってこないつもりです。もしかしたらむこうに骨をうずめるかもしれない。生きて皆と会う機会は2度と来ないかもしれないが、これも人の世の定めでありましょう」
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