幕末維新の志士や事件の知られざる真実に迫る連載「風雲!幕末維新伝」。第6回のテーマは長州が生んだ革命児・高杉晋作についてです。高杉といえば『おもしろき こともなき世を おもしろく』という辞世の句が有名ですが、これには意外な真実が…!?その真相を解明します。
不治の病に冒される
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目は駭然として敢て正視するものなし。これ我が東行高杉君にあらずや」
元長州藩士で維新後に初代総理大臣となった伊藤博文(俊輔)が、高杉晋作の顕彰碑に刻んだ銘文です。幕末の動乱期をともに駆け抜けた盟友を、最大級の賛辞でたたえています。
動けば雷電のように激しく、言葉を発すれば風雨のように静かである――と評されたその高杉は、病によって29年の生涯を閉じました。当時は不治の病といわれた肺結核に冒された高杉が亡くなったのは、明治維新がなるわずか数か月前、慶応3年(1867)4月14日のことでした。
前年の7月頃、幕長戦争の最中に発病した肺結核は、急速に高杉の体をむしばんでいったのです。初めはただの風邪だと高杉自身も思っていたようですが、一向に改善しない病状に医者の診察を受けると、そこで肺病(肺結核)という病名が告げられました。
9月29日に同志井上聞多(馨)にあてた高杉の手紙にはこう書かれています。
「小生ことも戦争中風邪にあたり、それより肺病の姿にあいなり、すでに40日あまりも苦臥まかりあり候」
続く10月2日には木戸貫治(孝允)に病状を知らせ、
「少々咳血これあり候ゆえ驚き候までに御座候」
と書きました。喀血は肺結核の本格的な症状ですから、病状はいよいよ深刻化していたのです。幸いに幕長戦争のほうは長州側の優勢のうちに講和が結ばれ、停戦となったので、以後の高杉は療養に専念することができました。
東行庵に隠棲する
10月下旬、高杉は下関郊外の桜山に療養のための小屋を建て、移り住みました。この家を高杉は自らの雅号をとって東行庵と名付け、隠棲のための庵としたのです。
高杉には、おうのという愛人がいて、東行庵ではこのおうのと一緒に暮らしました。おうのとの日々は、病気に苦しむ高杉にとって、わずかでも救いになっていたでしょうか。
おうのの談話が残っていて、高杉の病気についてはこう語られています。
「原因はお酒の飲み過ごしでございまして…旦那は、戦争にいらっしゃいました折に、兵隊が進まないからといってはお酒を召し上がって、自分が真っ先にお進みなさいましたが…それがとうとうもととかで、もう一生なおる見込みのない肺という恐ろしい病におかかりなさいました」(『野村望東尼伝』)
肺結核の原因が酒ということは実際にはありませんが、飲み過ぎが体に悪いのは当然のこと。高杉も大の酒好きであったことが、病気になった遠因ではあったのでしょう。
慶応3年(1867)2月になると、桜山の東行庵からさらに下関新地の林算九郎方に移って療養につとめました。林宅に移った理由ははっきりしていませんが、山中では療養するのにも何かと不便であったのかもしれません。
林宅には福岡の勤王歌人・野村望東尼(のむらぼうとうに)と、長州の桧竜眼(ひのきりゅうがん)という僧もやってきて、おうのと3人がかりで高杉の面倒をみました。望東尼も竜眼もかつて高杉に世話になったといって、献身的に看病にあたります。高杉という人のあまり知られない一面がうかがえる話です。
4月13日夜、すでに寝返りも打てなくなっていた高杉が、突然起き上がり、竜眼を呼んでいいました。
「竜眼よ、おれは今から山口の政事堂に行くからお供をせい、そして駕籠を雇うて来よ」(『野村望東尼伝』)
無茶な話ですが、ともかく竜眼は駕籠を用意し、座敷まで引き込んで、望東尼とおうのの3人がかりで高杉を駕籠に乗せました。高杉は大いに喜び、
「おい竜眼、お前は一足先に大坂屋(料亭)に行って、酒肴を命じておけ、其家で愉快に出で立ちをして、それから政事堂に乗り込もう」(同書)
と無茶苦茶なことをいいます。竜眼は仕方なく「ハイ、ハイ」と返事をして、駕籠かきたちに駕籠を出発させるふりをさせました。それで座敷の内を二、三周ぐるぐるとまわらせると、高杉は満足したようで、
「ああ、もうよしよし。これで安心した」(同書)
といって駕籠から降りると、床に戻って再び寝入ってしまいました。そんな高杉の姿におうのは涙を流しましたが、そのまま高杉は14日の未明、目覚めることなく息を引き取りました。雷電のごとき行動力で幕末の長州藩を牽引した革命児、高杉晋作の29年の生涯でした。
おもしろきこともなき世におもしろく
高杉には有名な辞世の歌が伝わっています。その歌は、司馬遼太郎の小説『世に棲む日日』のなかで、印象的に紹介されています。
枕頭にいた野村望東尼が紙を晋作の顔のそばにもってゆき、筆をもたせた。晋作は辞世の歌を書くつもりであった。ちょっと考え、やがてみみずが這うような力のない文字で、書きはじめた。
『おもしろき こともなき世を おもしろく』
とまで書いたが、力が尽き、筆をおとしてしまった。晋作にすれば本来おもしろからぬ世の中をずいぶん面白くすごしてきた、もはやなんの悔いもない、というつもりであったろうが、望東尼は、晋作のこの尻きれとんぼの辞世に下の句をつけてやらねばならないと思い、
『すみなすものは 心なりけり』
と書き、晋作の顔の上にかざした。
名作『世に棲む日日』のエンディングを飾る、まさに名場面です。高杉は、望東尼の付けた下の句を気に入ったのかどうか、「面白いのう」と微笑んで、息を引き取ったということになっています。
この歌については、高杉の残した『東行遺稿』の「丙寅稿」のなかに写しが現存していて、次のようにあります。
「面句(ママ)キ事モナキ世ニヲモシロク 些々生
住ナスモノハコヽロナリケリ 望東」
「些々(ささ)」というのは「笹」を意味していて、晩年の高杉が好んで用いた雅号です。したがってこの歌の上の句は高杉が詠み、下の句は望東尼が付けたというのは間違いありません。
一般に伝わる表記では「世を」となっているところが「世に」とされていますが、これは「世に」のほうが正しいのでしょう。いずれであっても意味に変わりはなく、問題はありません。
しかし、実はこの歌には最大の問題が残されているのです。
その問題とは、この歌が前述したように「丙寅稿」のなかに収録されていること。「丙寅(へいいん・ひのえとら)」とは慶応2年(1866)のことを表し、「丙寅稿」は高杉が慶応2年中に詠んだり書いたりしたものをまとめたファイルなのです。
もし「おもしろき――」の歌が慶応2年中に詠まれたものであれば、それは辞世の歌ということにはなりません。高杉と望東尼が交流するなかで、上の句と下の句を詠み合った歌であるのは間違いないものの、慶応3年4月に没した高杉の辞世とはなりえないのです。
司馬遼太郎は、おそらくそのことを知っていたでしょう。「おもしろき――」の歌が慶応2年中に詠まれたことを知っていながら、小説のネタとして作成時期をずらし、辞世の歌として紹介した。その作家としての構成能力に、私たちは改めて脱帽せざるをえないのです。
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