長州藩を中心に多くの志士たちに影響を与えた吉田松陰。私塾「松下村塾(しょうかそんじゅく)」で、後の明治維新で大きな働きをする若者たちを教育しました。身分の隔たりなく教えを説いた松下村塾とは、どのような塾で、教えを乞いに集った塾生には、どんな人物がいたのでしょうか。そして、彼らを明治維新へと導いた、松陰の思想とはどのようなものだったのでしょうか。
今回は、吉田松陰と松下村塾についてご紹介していきます。
吉田松陰の松下村塾とは?
吉田松蔭は、文政13年(1830)8月4日、長州・萩(現在の山口県萩市)の松本村で、長州藩士・杉百合之助の次男として誕生。叔父である山鹿流兵学の師範・吉田大助の養子となり、山鹿流兵学を修めました。嘉永3年(1850)から諸国を遊学し、佐久間象山らに師事し、蘭学や砲術などを学びます。外国を制するにはまず外国の実情を知るべしという考えから、嘉永7年(1854)に停泊中のペリー艦隊へ乗船し渡航を計画しますが、失敗に終わり投獄。出獄後は萩で幽閉され、この地で安政4年(1857)、叔父・玉木文之進の塾の名を引き継ぎ、私塾「松下村塾」を開きました。
身分の隔たりがなかった松下村塾
長州藩の藩校である明倫館は、武士とその子供だけが入学できる学校です。対して松下村塾は、町民や農民など身分の隔たりなく受け入れを行い、才能あふれる若者たちが長州藩全土から集いました。
尊王攘夷を旨とした松下村塾の教えは、儒学や兵学、史学をはじめ多岐にわたっており、その教育方法も一方的に教えるものではなく、共に議論し学ぶことを尊んだものでした。また学問だけではなく、登山や水泳、農作業も塾生と一緒に行った松陰。「学んだことを実行に移すことが重要である」と塾生たちに説きながら、指導に当たっていたそうです。
塾生はこんなにいた!
松陰が松下村塾を主催していたのは、安政の大獄で刑死するまでの2年ほどの短い期間。そのわずかな間に教えた塾生は、延べ90名にのぼったとされ、維新志士として活躍した人物、維新後の明治政府で要職に就いた人物を多数育てました。
維新志士の代表格が「松下村塾の双璧」と呼ばれた、久坂玄瑞と高杉晋作の二人です。久坂玄瑞は松陰亡き後、長州藩の尊王攘夷運動の旗頭となり活躍。高杉晋作は、身分の隔たりなく志ある者を募った軍隊、「奇兵隊」を創設。初代総督として、激しい戦いを行います。
明治政府で要職に就いた塾生としては、初代・総理大臣となった伊藤博文が挙げられ、さらに内務卿・総理大臣などを歴任した山縣有朋も塾生として在籍していました。また、塾生ではありませんでしたが、桂小五郎(木戸孝允)は明倫館で松陰に師事し、兵学を学んでいます。
吉田松陰の教え「思想」について
松下村塾で尊王攘夷を旨に、教えを説いていた松陰。思想は日本国内にとどまらず、諸外国へも目を向けていました。のちに長州藩の中核を担っていく塾生へと受け継がれた思想とはどのようなものだったのでしょうか。
「一君万民論」とは?
一君万民論(いっくんばんみんろん)とは、「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」とする主張。権限や権威は、ただ一人の君主である天皇が持ち、そのほかの人は、身分に関係なく平等とする考え方です。この松陰の思想は幕府や藩の権威を失墜させ、封建社会の否定につながりました。
「飛耳長目」ってなに?
飛耳長目(びじちょうもく)とは、「情報を収集し将来の判断材料にせよ」という意味を持ち、松陰はいつも塾生に情報収集の必要性を説いていました。物事の判断をしたり、方向性を決めたりする場合には、たくさんの情報が欠かせません。実際、松陰自身も東北から九州までの諸藩を巡って動静を探り、投獄後は弟子たちに各地の状況を調べさせていました。“主要な藩へ情報探索者を送るべき”と長州藩へ主張するなど、松陰の時代の先を見通す力は、飛耳長目によるものといえるでしょう。
受け継がれた「対外思想」
松陰の対外思想は、野山獄の獄中で黒船密航の動機とともに、『幽囚録』(ゆうしゅうろく)のなかに記されています。蝦夷(北海道)の開拓と、当時はまだ半独立国であった琉球(現在の沖縄)を日本領化、李氏朝鮮の日本への帰属化に加えて、満洲と台湾、フィリピン占領の重要性を提唱しています。松陰のこのような対外思想は、維新後明治政府の要職に就いた松下村塾の門下生に受け継がれ、日本のアジア進出という対外政策に大きな影響を与えました。
「草莽崛起」と高杉晋作
「草莽(そうもう)」は、『孟子』において草木の間に潜む陰者を指し、これは一般大衆をあらしています。また、「崛起(くっき)」は立ち上がることをあらわすため、「草莽崛起」とは、「在野の人よ、立ち上がれ」を意味です。松陰が唱えるこの思想に影響を受け、実際に行動を起こしたのが高杉晋作です。安政の大獄によって松陰亡き後、町民や農民など在野の人々で構成された奇兵隊を組織し、倒幕へ大きな貢献を果たしました。
松陰亡き後も受け継がれた思想
新しい時代の訪れを予見し、身分の隔たりなく入れる私塾・松下村塾を開いた吉田松陰。しかし、安政の大獄で投獄され斬首刑になります。松蔭亡き後、久坂玄端や高杉晋作をはじめとする多くの志士たちが、その教えと思想を受け継ぎ、明治という新しい国が開かれていきました。
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