
関東の雄・北条氏康を父にもち、上杉謙信や武田信玄らと覇権を争った戦国武将・北条氏政。彼は後北条氏の歴史の中でもっとも大きな勢力を築きましたが、豊臣秀吉との対立でそのすべてを失いました。このことから無能とも評される氏政ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか?
今回は、氏政のうまれから武田領国への侵攻、その後の勢力拡大、小田原征伐と最期、氏政にまつわるエピソードなどについてご紹介します。
北条氏康の後を継いだ氏政
氏政はどのように家督を継承したのでしょうか?うまれから武田領国への侵攻までについて振り返ります。
後北条氏第4代当主に就任
氏政は、天文7年(1538)第3代当主・北条氏康の次男としてうまれ、兄・氏親が早くに亡くなったため世子となりました。天文23年(1554)氏康、武田信玄、今川義元との間で甲相駿三国同盟が成立すると、氏政は信玄の娘・黄梅院を正室に迎えます。政略結婚でしたが、夫婦仲は良かったようです。永禄2年(1559)に父が隠居すると、家督を継承して第4代当主に就任。しかし、氏康の存命中は氏康・氏政の両頭体制が続きました。
上杉謙信との戦い
永禄4年(1561)上杉謙信との小田原城の戦いで後北条氏は窮地に陥ります。しかし、信玄の支援もあり、氏政は籠城戦で上杉軍を撃退。謙信が第4次川中島の戦いで被害を受けると、氏政は信玄に呼応して北関東方面に侵攻し、上杉方に奪われた領土を奪還しました。永禄7年(1564)の第2次国府台合戦では、苦戦しつつも北条綱成とともに安房の里見氏に勝利します。これにより、謙信を盟主としていた諸将が氏政に帰順し、後北条氏は上野国にも勢力を拡大しました。
甲相同盟と越相同盟
永禄3年(1560)桶狭間の戦いで駿河の義元が討死し、甲駿関係が手切れとなったことから、信玄は駿河侵攻を開始しました。これにより、義元の嫡男であり氏政の義弟・今川氏真が没落。後北条氏は駿相同盟を優先し、甲相同盟が破綻します。氏政は武田方から離反した徳川家康と和議を結び、信玄に対抗するため、弟(上杉景虎)を宿敵・謙信に差し出し越相同盟を締結しました。しかし、元亀2年(1571)に父・氏康が病没すると、越相同盟を破棄して甲相同盟を復活させ、信玄の西上作戦に参加。謙信との戦いも再び始まり、氏政は関東の上杉派勢力をほぼ一掃して勢力を拡大しました。
武田領国を挟撃する
天正6年(1578)に謙信が死去すると、謙信の甥・上杉景勝と、氏政の弟で謙信の養子・景虎の間で、後継者をめぐる御館の乱が勃発します。氏政は武田勝頼に援軍を依頼し、勝頼の調停により景虎・景勝は和睦しました。ところが勝頼の撤兵中に和睦が破綻し、景勝が乱を制する形となり景虎は自害。これにより氏政は甲相同盟を破棄し、家康と同盟を結んで武田領国を挟撃します。その後は織田信長に臣従し、家督を氏直に譲って隠居しましたが、政治・軍事の実権は氏政が掌握し続けました。
勢力拡大し、最大版図を築く
その後も氏政は勢力を拡大し、後北条氏の最大版図を築きます。しかし、その裏には天下人との摩擦もありました。
織田家重臣・滝川一益と激突
天正10年(1582)織田氏が甲州征伐に乗り出すと、氏政はこれに呼応し武田領に侵攻。同年、勝頼が天目山の戦いで自刃し、甲斐武田氏が滅亡します。このころ信長は、滝川一益を関東管領として関東統治を目論んでいました。後北条氏は織田氏との婚姻を条件に関東一括統治を願い出ましたが、信長は好意的ではなかったようです。そんな中、明智光秀の謀反により信長が死去します。これにより武田氏旧領の甲斐・信濃をめぐる天正壬午の乱が勃発。後北条氏は一益と対立するも信濃東部から中部を占領下に置き、家康は真田昌幸を調略して北条軍と対立します。この騒動により織田氏は多くの領地を失い、一益も失脚しました。
徳川家康との和睦
その後、後北条氏と家康は対陣しましたが、氏政の子・氏直と家康の娘・督姫の結婚により和睦します。甲斐・信濃は徳川領、上野は北条領とすることで合意しましたが、家康についていた昌幸はこれを不服としました。自分で入手した上野・沼田城が後北条氏に明け渡されることを拒んだ昌幸は、対上杉という名目で新築した上田城に本拠を移すと、そのまま上杉氏に寝返り、徳川・北条と抗戦します。その後、徳川が上田に攻め入る第一次上田合戦が勃発。北条も沼田に攻め入りますが、戦いは真田陣営の勝利となりました。一方、上方では織田家の事実上の後継者となり、柴田勝家と対立していた羽柴秀吉が景勝と同盟を締結。景勝は上野を巡って氏政と争っていたことから、秀吉はこの時点で反北条の姿勢だったと考えられています。
240万石を領し、関東の頂点に
天正11年(1583)古河公方・足利義氏が死去すると、氏政は官途補任により権力を掌握し関東の頂点に立ちます。利根川・常陸川水系を確保し流通・交通体系を支配したため、反北条を掲げる関東の武将たちは従属か徹底抗戦かを選択することになりました。その後、氏政は下野侵攻により下野国の南半分を支配下に置き、常陸南部にも勢力を広げます。こうして後北条氏の領国は240万石となり、氏政は後北条氏の最大版図を築き上げました。
小田原征伐と最期
有力武将らとの戦いを重ね、絶頂期を迎えた氏政。しかしその後、秀吉との対立によりすべてを失うことになります。
沼田裁定と名胡桃城事件
天正16年(1588)、氏政は秀吉から聚楽第行幸への列席を求められましたが、これを拒否します。しかし、家康から説得され、最終的には秀吉への従属を決意。翌年、評定衆・板部岡江雪斎が沼田問題の解決を要請したことから、秀吉は沼田裁定を行います。これは、2/3が後北条氏、1/3が真田氏のものとするという内容で、領地の引き渡し後、北条方は沼田城と権現山城に、真田方は名胡桃城に家臣を配備しました。ところが同年10月、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲による名胡桃城奪取事件が勃発。これに対し秀吉は、諸大名に後北条氏追討の出陣をするよう促しました。
小田原城籠城の末、切腹
秀吉と対立した氏政・氏直親子は、家臣や他国衆に対し小田原への参陣を命じ、各方面から侵攻してくる豊臣軍を迎撃します。氏政は小田原城に籠城して抗戦したものの、領国内の諸城が次々と落城。押し寄せる敵の大軍に敵わず、最後は「武蔵・相模・伊豆のみを領地とする」「氏直に上洛をさせる」という条件のもと降伏しました。しかし、秀吉はこの和睦条件を破って氏政らに切腹を命じ、氏直を高野山に追放することを決意します。氏直は全将兵の助命を嘆願し、氏直の舅・家康も氏政の助命を乞いましたが、その願いも空しく氏政は切腹してこの世を去りました。
氏政にまるわるエピソード
一般的に知られる氏政の逸話には否定的なものも多いようです。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。
「汁かけ飯」と「麦飯」の逸話
氏政は食事の際に飯に汁をかけ、少なかったためもう一度汁をかけ足しました。それを見た父・氏康は、「汁かけ飯の量も量れぬ者に、領国や家臣を推し量ることなど出来ない」と嘆息したという逸話が残されています。
また『甲陽軍鑑』には、氏政が麦刈り中の農民を見て、「あの採れたての麦で昼飯にしよう」と言ったというエピソードもあり、これは氏政の無知さを示しているようです。ただし、これらは後世の創作ともいわれています。
家族思いで愛妻家だった
氏政は家族思いの愛妻家としても知られています。正室・黄梅院とは武田の駿河侵攻を機に離婚させられましたが、最後まで離婚を渋り、父の死後に武田氏と和睦した際には、真っ先に妻の遺骨をもらって手厚く葬ったと言われています。また、有能な弟たちとも良好な関係を維持していたようです。
戦国大名・後北条氏が滅亡した
戦国時代、後北条氏における最大勢力を築いた氏政。しかし、秀吉との対立から小田原征伐をまねき、結果として戦国大名としての後北条氏は滅びました。氏政は後北条氏滅亡時の実権者だったことから無能と評価されることもありますが、氏康時代以上に勢力を広げ、兄弟や家臣とも良い関係を築いていることから、実際は有能な人物だったといえるでしょう。
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