幕末維新の志士や事件の知られざる真実に迫る連載「風雲!幕末維新伝」。第8回のテーマは元治元年(1864)6月5日に起こった「池田屋事件」です。近年、この事件に関する新資料が発見され、新たな真実が浮かび上がってきました。
新選組の名をあげた池田屋事件
元治元年(1864)6月5日、有名な池田屋事件が起こりました。この日、新選組は京都三条小橋西の旅籠・池田屋に斬り込み、京都焼き討ちをもくろむ倒幕派浪士たちを多数捕殺する大手柄を立てたのです。
当日朝に捕らえた桝屋喜右衛門こと古高俊太郎の自白によって、一味の者が京都市中に数十人潜伏して御所に放火しようとしていることを新選組は知りました。この計画に驚いた局長近藤勇は、会津藩に事態を報告するとともに、一味の浪士を捕らえるために新選組総員に出動を命じます。
34人の隊士を二手に分け、一隊は副長土方歳三に指揮させて鴨川の東側を、もう一隊は近藤自らが率いて鴨川の西側を探索しました。そして3時間に及ぶ市中探索の果てに、近藤隊は三条小橋西の旅籠・池田屋惣兵衛方に不穏な気配のあることを察知します。
近藤隊は10人と少人数でしたが、土方隊の到着を待っている余裕はありません。近藤はすぐさま武田観柳斎ら6人に宿の表裏を固めさせ、自分と沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人だけで屋内に突入しました。
近藤と沖田が二階の奥座敷に続く階段を駆け上がると、そこに集まっていたのは探し求めていた浪士たちでした。永倉の手記にそのときの様子が記されています。
「長州人二十人ほど残らず抜刀、近藤勇、御用御改め、手向かいいたすにおいては容赦なく斬り捨てると申しーー」(永倉新八『浪士文久報国記事』)
実際には全員が長州人だったわけではなく、長州系の志士ということでしたが、人数は約20人。わずか4人で踏み込んだ近藤らは、いきなり危機におちいったのです。
しかし、近藤以下の4人は新選組の中でも屈指の腕利きたちでした。彼らは多勢に無勢をものともしない戦いぶりをみせ、結果的に池田屋の屋内で5人の浪士を討ち果たしたのです。5人は宮部鼎蔵(熊本)、広岡浪秀(長州)、石川潤次郎(土佐)、大高又次郎(播州林田)、福岡祐次郎(伊予松山)と推定されます。
やがて鴨川東を探索していた土方隊も到着し、戦闘は新選組の大勝利に終わりました。会津藩を初めとする諸藩の援兵も現場に現れましたが、すでに大勢は決しており、新選組の働きぶりばかりが目立つことになった一件でした。
この池田屋事件によって、それまでさほど有名ではなかった新選組が、一躍天下に名をとどろかせたのです。
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新発見の野老山吾吉郎調書
ところで、池田屋事件に関与していた志士の一人に野老山吾吉郎(ところやま あきちろう)という土佐藩士がいました。あまり多くの記録を残さなかった人物ですが、『維新土佐勤王史』には当夜の野老山について次のように記されています。
「この夜、藤崎八郎、野老山吾吉郎二人は板倉筑前介を訪いて密談中、不意に新選組の襲撃する所となり、二人奮闘の余り相失せしが、野老山は逸走して長藩邸に入るを得しも、創重くして遂に死しーー」
つまり池田屋事件とはまったく無関係だったが、当夜、板倉筑前介(土佐藩の学者)の家にいたところを新選組に襲撃され、長州藩邸に逃げ込んだものの、負傷のために没したというのです。いわば、池田屋事件の巻き添えを食って死んだということになります。
この記述以上のことはこれまで判明していなかったのですが、近年、「京摂事類」(『山内家史料・幕末維新』所収)という史料の中に興味深い記述があることがわかりました。次のようなものです。
「五吉(吾吉郎)儀、初め潤次郎(石川)、八郎(藤崎)に伴い御門出で、途中にて一度は相別れ諸所徘徊致し、夜分当邸御門前にて潤次郎に再会、池田屋へ参り、望月亀弥太〈ほかに脱走人一両名居り合い〉長藩松村某を初めとし、長藩、水府人ならびに町人体二人、都合十一人ばかり相集い、二階奥の間にて密談、刻を移し酒宴に相なり候場合ーー」
これによると、確かに野老山は池田屋の集会とは当初は無関係だったようですが、石川潤次郎に誘われて池田屋におもむき、そこでやはり同郷の望月亀弥太らと再会して、会議と酒宴に参加していたのです。記述はこのあと、「下座敷にてお改めこれある旨触れ込み候や否、数人剣槍を携え二階へ上がり来るーー」となっており、野老山もまた池田屋で新選組に襲撃された一人であることが明らかになりました。
さらにこれらの記述は、野老山自身が事件直後に土佐藩邸の者に語った調書が情報源になっていることも判明しました。「野老山吾吉郎調書」と呼ばれるこの史料は、現在高知県立坂本龍馬記念館が所蔵していますが、中村武生氏が著書『池田屋事件の研究』の中で解説され、また過日、BSーTBSのテレビ番組「諸説あり!」でも紹介されて話題になりました。
興味深いのは、この調書には野老山が池田屋で負傷したことがまったく記されていないことです。実は無傷であったのでしょう。調書をとられたあと長州藩邸にかくまってもらったのは確かなので、大筋では『維新土佐勤王史』のとおりなのですが、重傷のため死亡したというのはどうやら事実ではないようです。
おそらくは、池田屋の集会に参加していたことが知れると土佐藩の迷惑になると考え、責任をとって自害したのではないでしょうか。元治元年の時点では、土佐藩は佐幕の立場をとっており、藩士が倒幕行動に加わっていたというのは大問題になるからです。まだ19歳という若さの惜しまれる死でした。
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池田屋の浪士は13人?
前掲した野老山吾吉郎の証言には、ほかにも気になる箇所があります。それは、池田屋に野老山と石川がおもむいたとき、そこに集まっていた浪士は「十一人」だったといっていることです。
11人であれば、野老山と石川を加えて13人。永倉新八のいう20人とは随分開きがあります。どちらが本当なのでしょうか。
そういう目で池田屋に集った浪士の人数をあらためて諸史料から見てみると、20人以上としているものはわずかしかないことに気づきます。多くの史料は十数人と記し、西川太治郎の『池田屋事変殉難烈士伝』では、「間もなく入り来りしは勤王有志家十四人ばかりなり」とされています。
西川太治郎は、池田屋事件に連座したとして捕縛された西川耕蔵の縁者で、事件に関する情報を丹念に収集して著述した人物。14人というのは、野老山の語る13人とほぼ合致しており、かなり真実に迫った数字なのではないでしょうか。
考えてみれば永倉は、池田屋に集まっていた浪士の数を多めに語ったとしてもおかしくない立場にありました。自分たちの手柄をことさらに大きくみせようということではなかったとしても、人情として多少の水増しはあって当然という気もします。
永倉が証言し、これまで定説になっていた20人という浪士の人数は、今後は13人あるいは14人とするべきかもしれません。
もっとも、それによって新選組の評価がマイナスされるというものではなく、倒幕派による京都焼き討ちの暴挙を未然に防いだ功績には、少しも変わりはないということは断言しておきたいと思います。
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【風雲!幕末維新伝】連載一覧
第7回「伊庭八郎、箱根山崎の戦いで左腕を失う!」
第6回「革命児 高杉晋作が詠んだ幻の辞世!」
第5回「“新選組が誕生した日”は何月何日なのか?」
第4回「新選組・山南敬助の脱走の謎を解く!」
第3回「坂本龍馬・寺田屋遭難事件の真実を探る!」
第2回「勝海舟は江戸無血開城をどうやって成功させたのか?」
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