皆さんは参勤交代というとどのようなイメージを持つでしょうか。時代劇や歴史小説で大名行列という形ではよく目にしますが、実際に詳しいことはあまり知らないという方も多いかもしれません。3代将軍・徳川家光と幕府首脳部が知恵を絞って作り上げた参勤交代は、江戸幕府が265年もの長きに渡って日本を治めたことに大きく貢献した制度です。今回は、参勤交代の起源や意味、制度の仕組みなどについてご紹介します。
参勤交代について知りたい
参勤交代とはそもそもどのようなものなのでしょうか。ここでは、起源と意味について解説します。
起源は鎌倉時代に遡る
参勤交代と聞くと江戸時代のイメージが強いかもしれませんが、実は江戸幕府以前から運用されていました。その起源についてさかのぼると、日本史上最初の幕府が開かれた鎌倉時代に行き着きます。鎌倉時代、将軍から領地を与えられた御家人たちが領地から鎌倉に務めに出たことが参勤交代の始まりです。
参勤交代の意味を知る
参勤交代とはどのような意味なのでしょうか。参勤とは、出仕して主君に拝謁(はいえつ)することです。一定期間、主君である徳川将軍がいる江戸に滞在し、その後領地に戻るというものだったことから参勤交代と呼ばれる制度となりました。
制度化した家光と武家諸法度
もともと江戸時代に入ってから各藩主が徳川将軍への服従を示すために江戸に出向いていましたが、頻度や滞在日数などは各大名の任意となっていました。これを制度化したのが徳川家光です。ここからは、家光が参勤交代を制度化した理由や、制度化が明記された武家諸法度について見ていきましょう。
制度化したのは徳川家光
戦国時代が終わり泰平の世となった江戸時代でしたが、日本の政治状況は強力な主導権をもつ政府による中央政権ではなく、徳川家を中心とした封建制社会でした。そのために各諸侯は独自の軍事力と家臣団を持ち、領内の政治に関しても一定の主導権を有していました。このような状況は、徳川将軍家からするとあまり安心できるものではありません。現に幕府を開いた徳川家康も薩摩藩や毛利氏など関ヶ原の敗戦諸侯には警戒心を抱いていました。そこで、幕府と大名の主従関係をはっきりしたいと考えた家光は、それまで任意に行われていた参勤交代を軍役奉仕の目的として制度化することを思いつきます。徳川御三家のうち水戸藩だけは免除されましたが、それ以外は譜代大名、外様大名問わず家光が定めたルールに則って、参勤交代の義務を負うこととなりました。このアイデアにより、徳川家の支配体制はより強固なものになるのです。
武家諸法度により定められた
こうしてできた参勤交代の制度化は武家諸法度の「寛永令」に明記されています。武家諸法度とは江戸幕府が諸大名の統制のために作った法令で、大名の心得などが規定されていました。武家諸法度の寛永令には大名ら諸侯は領地と江戸との参勤交代の義務があることが明記されており、毎年4月に参勤することが示されています。
制度ができる前と制定後の違い
では、家光が参勤交代の制度を整える前と後ではどのように参勤交代は変わったのでしょうか。そこを探ると幕府の権威を強めるための家光のしたたかな策略が見えてきます。
制度ができる前の仕組み
参勤交代を明確に制度として確立したのは家光ですが、それ自体は前述の通り江戸時代以前から存在しました。鎌倉・室町・戦国時代も有力な家臣や領地を与えられたものが、その主君を定期的に訪ねていくことは当然のように行われていたのです。これは主従関係の確認や謀反心がないことを示したり、さまざまなことを打ち合わせたりするためでした。そのため、参勤交代の頻度や時期などは特に定められてはいませんでした。
参勤交代による影響
家光が制度化した後、参勤交代によって大名たちは1年置きに江戸に出仕しなければならなくなりました。そのため江戸に上るときと領地に帰るときに共揃えをしなければならず、莫大な出費をすることになったのです。この出費は各藩の財政を圧迫し、国力を低下させ結果的に徳川家の勢力が長く続くことにつながりました。また大名の嫡子と正妻は江戸の大名屋敷にいなければならないなど、“人質”を確保するための制度という側面もあったのです。加えて、幕府にとって要注意である外様大名は江戸から遠くに領地を持つことが多かったため、駕籠や行列を用意して行う参勤交代は大きな負担になりました。このため、幕府の権威は大きく上がり、制度化を決めた家光の目論み通りの結果になったのでした。
廃止に至った経緯
嘉永6年(1853)にペリーが来航したことを皮切りに、欧米列強の日本列島への圧力が強まってきました。これを懸念した幕府は、文久の改革により参勤交代の規制緩和を行います。これは海岸線の防備力強化と各藩の武力を向上させるためでした。この規制緩和により参勤交代の頻度が3年に1回になり、正妻と嫡子に関しても国元に帰ることができるようになったことから、幕府の権威は大きく下がります。その後、大政奉還とともに参勤交代という制度は歴史から姿を消したのでした。
江戸幕府による人質策だった
歴史小説や時代劇にも登場する江戸時代の参勤交代は、幕府を永続させたいと考えていた家光らが、江戸時代以前からあった習慣を幕府維持のために制度化したものでした。参勤交代は幕藩体制と大名統制のカギとなるとともに、徳川家の求心力を強めるための制度であり、各藩にとっては江戸に人質を置くようなものだったのです。その目的通り、各藩は参勤交代によって巨額の費用と人手が必要になり、結果的に徳川幕府の天下が長く続きました。
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