土佐脱藩の志士・坂本龍馬が果たした偉業に、大政奉還の実現がありました。龍馬の献策をもとにした建白書によって将軍徳川慶喜が政権返上を決断し、明治維新が大きく前進したのです。
ただし、大政奉還論そのものは龍馬が考案したのではなく、すでに存在していたアイデアを龍馬がブラッシュアップして実行したということが知られています。
龍馬の大政奉還論は従来のものとどこが違い、どういうところがすぐれていたのか。今回は、そのあたりを検証してみましょう。
大政奉還論の発案者は大久保一翁
大政奉還論が初めて唱えられたのは、龍馬によって実現する慶応3年(1867)より5年前の文久2年(1862)のこと。発案者は幕臣で、当時大目付兼外国奉行の大久保一翁(忠寛)でした。
幕末でも有数の開明派として知られる一翁が、同年10月20日、松平春嶽(前越前福井藩主)、横井小楠(肥後熊本藩士)と会談したときのことです。京都の朝廷から攘夷を実行せよと迫られ、どう対応したらよいか苦慮していた春嶽に対し、一翁はこう発言しました。
“攘夷は国家のために得策ではないとお答えするしかありません。それでも朝廷がお聞き入れくださらずに攘夷をせよと仰せられれば、そのときは政権を朝廷に奉還し、徳川家は旧領の駿河、遠江、三河の三国をもらい受けて、一諸侯の列に下るべきです” (『逸事史補』意訳)
この大胆な意見には、同じく開明派といわれる春嶽も驚きました。のちには理解を示すものの、このときは「大久保はおかしくなったのか」とまで思ったといいます。
それも当然でしょう。尊王攘夷派の勢力が強まり、幕府が弱体化していたのは確かですが、徳川がみずから政権を手放し、わずか3国の主になりさがるというのは極端すぎる提案としかいいようがありません。
そのため、一翁の大政奉還論はこれ以上進展をみせることはありませんでした。現代において、大政奉還論の発案者としての一翁の名がそれほど浸透していないのは、時期的にも内容的にも、未成熟な論策であったためということにならざるをえないでしょう。
大久保一翁と坂本龍馬の出会い
しかし、大久保一翁の大政奉還論に接した坂本龍馬は、これを大いに気に入ったといいます。文久3年(1863)4月2日、一翁の屋敷を訪れた5人の土佐者のうち、龍馬と沢村惣之丞の2人だけは一翁の論に「手を打たんばかりに」(一翁書簡)同意したのです。
一翁の大政奉還論が、なぜそこまで龍馬らの心をつかんだのでしょうか。それは龍馬が無駄な血を流すことを好まない主義の人間だったからでしょう。
むろん新しい時代を作るためにどうしても必要であれば、戦争になるのはやむをえないことでしたが、人を死なさずにすむのならそれに越したことはない。龍馬というのはそういう考えの持ち主でした。
だから龍馬にとって、徳川がみずから政権を手放すことによって幕末の動乱を終結させる大政奉還論は、これ以上ない名案といえたのです。
ただし、前述したようにこのときの大政奉還論には大きな欠点があり、それは徳川家が政権をみずから手放すことの難しさでした。尊攘派の勢いが強くなっているといっても、もし戦争になれば負けることはないと思っている以上、徳川が政権を手放すはずがないのです。
そのため龍馬も、このあとしばらくの間、大政奉還論を主張することは控えるようになります。ものごとを成就させるには、タイミングが何よりも重要だと龍馬はわかっていたのです。
そんな龍馬が待ち望んでいた状況が、3年後の慶応2年(1866)8月になって、ようやく到来しました。第二次長州征伐による幕府と長州の戦争がおこなわれ、幕府は事実上の敗北を喫したのです。
幕府軍は10万の兵を擁する大軍だったのに対して、長州軍はわずか4000の寡兵。そんな長州軍が長州本国に押し寄せる幕府の大軍を藩境で撃退したのですから、幕府側のショックは大きいものでした。
このときとばかりに、龍馬は久しぶりに大政奉還論を持ち出し、福井藩士・下山尚を通じて、藩侯松平春嶽に推進役を願い出ます。
“政権奉還の策を速やかに春嶽公に告げ、春嶽公が全力でこれにあたれば、必ず実現できることでしょう” (『西南紀行』意訳)
大政奉還がいかにすぐれた論策であったとしても、それを龍馬のような低い身分の武士が幕府側に建言することはできません。その役目には、龍馬とも面識があり、しかも大久保一翁からすでに論策を聞かされている松平春嶽という大名はうってつけの存在だったのです。
残念ながらこのときは、龍馬の期待に反して春嶽が動くことはありませんでした。徳川親藩という立場の春嶽としては、幕府に政権を返上するように言うことは、なかなか決断できるものではなかったのでしょう。
土佐藩による大政奉還建白書
そんな龍馬にとって歯がゆい状況が好転したのは、あくる慶応3年(1867)3月のことでした。故郷の土佐から龍馬の脱藩の罪が許され、土佐藩傘下の海援隊隊長に任命されたのです。これまで一介の浪人として活動してきた龍馬に、土佐藩という大きな後ろ盾ができたことになります。
土佐藩の権力者は前藩主の山内容堂。この容堂も、雄藩連合による新政権の樹立をもくろみながら、藩祖以来の恩義のある徳川を武力で打倒することには反対の立場でしたから、龍馬の考えとは一致するものがありました。
そこで龍馬は、同年6月、藩参政・後藤象二郎に大政奉還の秘策を授け、容堂に上申することを依頼します。このときの龍馬の献策は、後世に船中八策と呼ばれるようになりますが、大政奉還のほかにも、議会の開設、憲法の制定などといった新政府のとるべき方針が盛り込まれた見事なものでした。
そして、何よりも龍馬の大政奉還論がすぐれていたのは、徳川が政権を手放したあと一諸侯に成り下がるとしても、かつて大久保一翁が主張したときのような、駿河、遠江、三河だけにとどまるような極端な論になっていないことです。
駿遠三の3国しか与えられないとすれば、徳川も決して大政奉還論を受け入れることはないでしょう。一翁の論の欠点というべき部分を龍馬は改善し、徳川は旧領の400万石を維持したまま一諸侯に下るということにしたのです。
そうすることで、政権を手放すことに抵抗のあった徳川にも、一転して飲みやすい提案となります。龍馬はそこに、大政奉還の成功の可能性を見出したのでした。
はたして10月3日、大政奉還建白書は山内容堂の名で徳川に提出され、将軍徳川慶喜はこれを受諾、14日に朝廷に上表して大政奉還が成立しました。大久保一翁からアイデアを授けられてから、4年半後のことでした。
この直後に龍馬が暗殺されたことにより、大政奉還は不完全な形となってしまいましたが、できるだけ血を流すことなく革命を成就させたいと願った龍馬の平和志向は、幕末の動乱のなかにあって特筆されるべきでしょう。
「世界一よくわかる坂本龍馬」(著:山村竜也/祥伝社)
幕末維新の英雄としてあまりにも有名な坂本龍馬。しかし、これまでは過度に美化されてきたところも。NHK大河ドラマ「西郷どん」「龍馬伝」の時代考証家が史料を読み込み、人間・龍馬の真の姿を解き明かす。
【風雲!幕末維新伝】連載一覧
第1回「坂本龍馬暗殺の犯人はこの男だ」
第2回「勝海舟は江戸無血開城をどうやって成功させたのか?」
第3回「坂本龍馬・寺田屋遭難事件の真実を探る!」
第4回「新選組・山南敬助の脱走の謎を解く!」
第5回「“新選組が誕生した日”は何月何日なのか?」
第6回「革命児 高杉晋作が詠んだ幻の辞世!」
第7回「伊庭八郎、箱根山崎の戦いで左腕を失う!」
第8回「新選組、新発見史料が語る池田屋事件の真実!」
第9回「勝海舟が学んだ長崎海軍伝習所とは何か?」
第10回「西郷隆盛の銅像の真実を探る!」
第11回「高杉晋作が坂本龍馬に贈ったピストルとは!」
第12回「新選組の制服羽織の実際を探る!」
第13回「坂本龍馬は勝海舟を本当に斬ろうとしたのか?」
第14回「渋沢栄一と新選組の知られざる交流とは!」
第15回「岩崎弥太郎の見た坂本龍馬と海援隊!」
第16回「幕府遊撃隊長・人見勝太郎 炎の生涯!」
第17回「新選組美少年隊士の謎を解く!」
第18回「幕末に流行した新型伝染病コレラの脅威!」
第19回「高杉晋作が見せた長州男児の肝っ玉とは?」
第20回「薩長同盟は坂本龍馬によって実現したのか?」
第21回「劇団ひとりに受け継がれた土佐二十三士の魂!」
第22回「新選組、局中法度の実際を探る!」
第23回「新選組隊士に求められた唯一の条件とは?」
第24回「近藤勇や土方歳三はいつ農民から武士になったのか?」
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