【あの人物は○○だった!?】日本史にまつわる都市伝説

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【あの人物は○○だった!?】日本史にまつわる都市伝説

日本の歴史には“都市伝説”といわれるような逸話や伝説が数多く語り継がれています。そのほとんどは確証がなかったり、すでに否定されているものだったりしますが、ついつい歴史のロマンを感じてしまいますよね。今回はそんな数ある都市伝説の中から、有名な3つのエピソードをご紹介します。

上杉謙信=女性説

群雄割拠の戦国時代に「越後の虎」とたたえられた上杉謙信。勇猛果敢な戦いぶりで知られるこの武将が、実は女性だったという説があります。

この説を唱えたのは、作家の八切止夫でした。これはスペインで発見されたゴンザレスという船乗りが国王に提出した報告書の中で「上杉景勝は叔母が開発した佐渡の金を持っている」という記述があったことを根拠にしたものです。景勝は謙信の姉の子で、謙信には他に姉妹はいなかったため、叔母というのが謙信に当たると考えられました。氏はその他にも、瞽女(ゴゼ)歌という民謡の中で、謙信が「男も及ばぬ大力無双」と唄われていたことなどを取り上げています。

上杉謙信の肖像画
上杉謙信。この肖像画も江戸になって描かれたという話。実際にはヒゲはなかったかもしれませんね。

それ以外で女性説の根拠となっているのが、謙信が生涯独身を貫いていたことです。側室がいた様子もなく、跡取りには他家からの養子を迎え入れていました。さらに、毎月10日ごろになると、合戦の最中であっても腹痛を理由に自室にこもることがあったといいます。この周期的に訪れる腹痛が女性の生理だったのではないかといわれており、上杉謙信=女性説の信憑性を高めることになりました。

源義経=チンギス・ハン説

日本には「判官びいき」という言葉があります。勝者よりも敗者、強者よりも弱者に肩入れしてしまう感情のことです。この言葉は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、源義経が判官の地位にあったことに由来しています。

源義経の自筆の書
『源義経請文』義経の自筆によるもの。

源平の戦では、華々しい戦果を上げた源義経。しかし、そのカリスマ性が、実の兄である源頼朝に疎んじられる原因となりました。義経は頼朝と対立して朝敵となり、追われる身となります。最期は身を寄せていた奥州藤原氏の裏切りにあい、平泉にある衣川館で自害しました。そんな義経が実は生存していて、モンゴルへ渡りチンギス・ハン(カン)になったという説があります。

この説が最初に提唱されたのはドイツ人医学者のシーボルトでした。彼は著『日本』の中で、義経が生き延びて蝦夷へと逃れていったことを示す伝説が東北や北海道にあることや、チンギス・ハンの前半生が不詳であること、当時のモンゴルになかった長弓をジンギス・ハンが得意にしていたことなどから、この説を支持しました。その後、末松謙澄『義経再興記』や小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義經也』が発刊されたことで広く知られるようになり、多くの信奉者を生み出しています。

また、シーボルト以前にも義経生存説はたびたび議論されており、江戸時代中期には林羅山や新井白石が「義経は衣川で死なずに蝦夷へと逃れ子孫を残している」と生存説を支持しています。長きにわたってこうした議論が続いているのも、悲劇の将として極めて人気の高い源義経だからこそだといえるでしょう。

明智光秀=天海説

明智光秀といえば、織田信長を討ち取った「本能寺の変」が有名です。光秀はその後、中国(今の岡山県)から取って返した豊臣秀吉に討伐され、“三日天下”という言葉を後世に残すことになりました。しかし、この光秀が、実は生きていたのではないかという説があります。

260年もの長きにわたる江戸時代の基礎を築いた徳川家康には、朝廷政治や宗教についての相談役がいました。南光坊天海(なんこうぼうてんかい)というその僧侶こそ生き延びた明智光秀だったのではないかといわれています。天海については不明な点が多いのですが、当時としては異例の100歳を越える長寿だったと伝えられています。

南光坊天海
南光坊天海。謎に包まれた人物として知られています。

この説を最初に提唱したとされるのは明治時代の作家・須藤光暉(南翠)で、その後に明智光秀の子孫と称する明智滝朗が『光秀行状記』で主張したことから一般に広まりました。

光秀が天海だったとする説の根拠には様々なものがあります。もっとも有名なのは徳川家康が祀られている日光東照宮に、明智家の家紋である“桔梗紋”があるというもの。徳川家の”葵”の家紋ではなく、桔梗紋が残されているのは確かにミステリーですよね。加えて、日光には“明智平(あけちだいら)”という地名があります。この明智平の名付け親が、天海なのはいうまでもないでしょう。明智の名を後世に残したかったのか、謎は深まるばかりです。

その他にも、家光の乳母である春日局(光秀の重臣である斎藤利三の娘)が江戸城に入った際に「お久しぶりでございます」と天海に挨拶したという逸話や、秀忠と家光の名前に光秀という文字が隠されているといったものまで、さまざまなエピソードが明智光秀=天海説の根拠として現在も語り継がれています。

都市伝説は歴史のロマン!

今回ご紹介した都市伝説は突拍子がないようでいて、「もしかしたら」と思わせるような根拠がいくつもありました。だからこそ、多くの歴史好きたちを魅了し、今日まで語り継がれてきたのでしょうね。ここで紹介したものはほんの一部です。ぜひみなさんも日本史にまつわる様々な都市伝説を調べてみてはいかがでしょうか?

 

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