日本史上でまず思い浮かぶ遷都劇といえば、「鳴くよウグイス平安京」でおなじみの、794年の平安京遷都ではないでしょうか。それから約400年、太政大臣へと昇り詰めた平清盛は、福原へと遷都を強行しました。しかしこれはたった半年で挫折してしまいます。ちょっと不可解にも思えるこの福原遷都。清盛はなぜ福原への遷都を決めたのでしょうか?
平清盛が押し進めた福原遷都とは?
平安末期の治承4(1180)年6月、平清盛によって都が京都から福原(兵庫県神戸市中央区~兵庫区北部付近)に移されました。400年も続いた平安京からの遷都ということで、高倉上皇や同じ平家一門からも反対の声が挙がったのですが、それでも清盛は強行したのです。
そして、安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇が福原へ行幸するという形で遷都となりました。行宮という仮の御座所が造られ、福原を拠点としていた清盛ら平家一門の邸宅が提供されたのですが、とても慌ただしいものだったそうです。
なぜ福原?なぜ遷都?
福原には、平家の港である大輪田泊(現在の神戸港西部)がありました。ここは中国の宋との貿易も行われていた国際貿易港で、人工島の「経が島」まで造られていたのです。
清盛は、仁安3(1168)年に出家してからは主に福原に居住していました。平家一門の別荘も多かったので、ここに都を置き、中国(宋)との貿易の陣頭指揮をとるつもりだったのでしょう。
遷都の理由についてはいくつかの説があります。
ひとつは、奈良・京都の寺社勢力の政治干渉を避けたいという思いがあったという説です。
以仁王が平氏追討の令を各地に下した際、奈良の興福寺は以仁王に加担しました。他にも園城寺や延暦寺も反平氏の態度を鮮明にしており、この勢力を遠ざけたかったと清盛が考えたために遷都に及んだとも言われています。
また、もうひとつは、福原遷都によって新たな朝廷の出発としたかったと考えていた説です。
平安京に桓武天皇が遷都したときは、天武天皇系から天智天皇系へと系統が移行した節目でもありました。そして、平城京から平安京へと都が移され、新たな王朝としての出発を飾ったわけです。
清盛もまた、自分の孫に当たる安徳天皇が即位したということで、平氏の影響が強い新たな朝廷のスタートを内外に知らしめたかったのではないでしょうか。
わずか半年で…福原遷都の挫折
多くの反対を押し切り清盛が強行した福原遷都ですが、たった半年で頓挫することとなります。
高倉上皇はもともと遷都に反対だったため平安京を放棄せずにいましたし、急すぎる遷都によって都市整備も進んでいませんでした。
それに加えて、以仁王の平氏追討令によって、全国各地で反平氏の反乱が起きていたのです。これを鎮圧する方が先決であり、清盛は苦渋の決断を下し、平安京へと再び都を戻したのでした。そして翌年の治承5(1181)年、病に倒れて亡くなってしまったのです。
平氏滅亡と福原のその後
寿永2(1183)年には、反平氏として勢いを増した源(木曽)義仲に平氏は敗れてしまい、西国へと落ち延びていきます。その途中で一門は福原に立ち寄り一晩を過ごしました。そして翌朝、街に火をかけて立ち去ったのです。
彼らの行く先に待っていたのは壇ノ浦。
元暦2(1185)年、西国へ落ち延びた平氏一門は、源氏勢力によって壇ノ浦に沈みました。
福原遷都からわずか5年後のことだったのです。
武家出身でありながら朝廷でも栄華をきわめ、武家政権を樹立した平清盛。彼が目指した政治の舞台・福原に遷都が実現していたら、大輪田泊はさらに発展し、平氏の行く末も変わっていたのかもしれません。
(xiao)
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