鎌倉幕府を開いた武士・源頼朝の妻といえば北条政子ですが、それ以前に八重姫(やえひめ)という前妻がいたのをご存知でしょうか?彼女は政子と同じように、源氏の敵方でありながら頼朝と恋に落ちました。しかし、彼女のことは日本史上ではあまり語られないようです。令和4年(2022)のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、新垣結衣さんが八重姫役を演じます。悲劇の生涯を送った八重姫とは、一体どのような女性だったのでしょうか?
今回は、八重姫の生い立ちから最期まで、八重姫にまつわる謎、八重姫の面影が残る地などについてご紹介します。
八重姫はどんな女性だったのか?
八重姫はどのような生涯を送ったのでしょうか。彼女の生い立ち、結婚、そして最期までを振り返ります。
伊東祐親の三女として誕生
八重姫は伊豆国伊東庄の豪族・伊東祐親(いとうすけちか)の三女として生まれました。詳しい生没年は不明です。祐親の孫には、曾我祐成・時致の兄弟、三浦義村のほか、鎌倉幕府の第2代執権として活躍した北条義時らがいます。また、義時の父・北条時政の最初の正室は祐親の娘(妹という説もあり)といわれていることから、時政の子・北条政子と八重姫は叔母と姪、または従姉妹と考えられます。
東国において親平家の豪族だった祐親は、平清盛から信頼を得ていました。そのため、平治元年(1159)に起こった平治の乱の敗北により伊豆に配流となった源頼朝の監視を任されていたようです。
源頼朝と通じた八重姫
『曽我物語』によると、八重姫は父・祐親が大番役で上洛しているあいだに頼朝と通じ、男子・千鶴丸(千鶴御前)をもうけたといいます。しかし、京から戻った祐親はこれを知り激怒。「今の時代、源氏の流人を婿に取るくらいなら娘を非人乞食に取らせるほうがましだ。平家の咎めを受けたらどうするのか」と言い、家人に命じて千鶴丸を簀巻き(すまき)にして生きたまま轟ヶ淵(稚児ヶ淵)に沈めてしまいました。
逃亡先で頼朝は北条政子と結ばれ……
さらに祐親は頼朝を討つべく家来を差し向けましたが、頼朝はなんとか難を逃れます。これは、頼朝の乳母・比企尼(ひきあま)の三女を妻にもつ祐親の次男・祐清が事態を知らせたからでした。その後、頼朝は祐清の烏帽子親(元服儀式の際に加冠を行う者)である北条時政の屋敷に逃亡。時政のもとで生活するようになった頼朝はやがて政子と結ばれます。時政ももともとは2人の関係に反対していましたが、2人のあいだに長女ができたため許したようです。
その後は諸説あり
一方、八重姫のその後については、入水自殺したという説や北条の家来・江間小四郎(えまこしろう)に嫁いだという説などがあります。『曽我物語』によれば、強制的に夫と離別させられ我が子まで失うという悲しみのなかにいた八重姫は、他家に嫁がされました。しかし、八重姫は頼朝のことを忘れられず、治承4年(1180)、祐親が伊豆を留守しているあいだに侍女6人を引き連れて屋敷を抜け出します。伊豆の山を越えて向かった先は、頼朝が匿われている時政の屋敷です。そこで目にしたのは、すでに政子と結ばれ、子までもうけていた頼朝の姿でした。頼朝と会うことが叶わず絶望した八重姫は、古川の真珠ヶ淵へと身を投げたといいます。
八重姫にまつわる謎
八重姫にはさまざまな謎が残されています。ここではその謎についてご紹介します。
八重姫は伝承の域をでない存在
八重姫や千鶴丸についての記述は軍記物の『曽我物語』『源平闘諍録』などに見られますが、頼朝の流人時代の史料は残されていないため真偽のほどは定かではありません。そのため、八重姫の生涯については伝承の域を出ないといえるでしょう。ただし、鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』によれば、頼朝と祐親のあいだに因縁があったことは確かなようです。
頼朝襲撃は「うわなり打ち」の可能性も
祐親により離別した頼朝と八重姫ですが、異説のなかには、頼朝と八重姫の婚姻は祐親自身も認めていたというパターンもあります。この説の場合、祐親が頼朝を襲撃したのは平家との関係を憂いたからではなく、頼朝が政子と関係したことに対しての一種の「うわなり打ち」だったと考えられています。「うわなり打ち」とは、平安時代末期から戦国時代にかけて行われた日本の風習で、離縁した前妻が後妻 (うわなり) にいやがらせをする行為のことです。時代によって少し内容が異なるようですが、前妻は予告した上で同志となる女性らとともに後妻の家を襲ったといわれています。
再婚相手は北条義時だった?
先述のとおり、八重姫は頼朝と離縁させられたあと、小四郎のもとに嫁に出されたという説があります。『吾妻鏡』では義時のことを江間小四郎と記述していることから、小四郎と義時は同一人物という説があるようです。しかし、義時の妻として八重姫の名は確認できないことから、別人と考えられています。
現在も残る八重姫の面影
存在そのものが伝承ともいえる八重姫。しかし、彼女が過ごした地域には、いまも面影が残されています。
八重姫を祀る「真珠院」
静岡県伊豆の国市中条にある「真珠院」は、八重姫が身を投げた真珠ヶ淵に面して建てられています。ここには八重姫を祀った「八重姫御堂」があり、お堂の一角にはたくさんの小さな梯子が置かれているそうです。これは「梯子供養」と呼ばれ、八重姫が入水したとき、せめて梯子が1本でもあれば助けられたかもしれないという村人の気持ちから始まったといいます。願いごとが叶ったときには、お礼参りとして梯子を奉納するとのこと。また境内には、八重姫とともに命を絶った6人の侍女を供養する「八重姫主従七女之碑」も建てられています。
2人が逢瀬を重ねた「音無神社」
静岡県伊東市音無町には、頼朝と八重姫の伝承が残る「音無神社」があります。音無神社は音無川(松川)の東岸に鎮座する「音無の森」に囲まれた神社で、天下の奇祭といわれる「尻つみ祭り」が行われることでも有名です。
『曽我物語』によれば、頼朝と八重姫は「音無の森」で逢瀬を重ねたといいます。対岸にある「ひぐらしの森」は、頼朝が八重姫に会うために日暮れを待った場所ともいわれています。このような伝承から、「音無の森」と「ひぐらしの森」を結ぶ岡橋には「音無の森」で密会する2人の姿が描かれています。また、この近くにある「最誓寺」は江間小四郎と八重姫が開基と伝わっており、千鶴丸を祀った寺といわれているようです。
歴史に埋もれた源頼朝の前妻
親平家方の豪族の娘として生まれながら、敵方である源頼朝に恋をした八重姫。彼女についての史料は少なく確かなことはわかりませんが、大恋愛の末に悲しい結末を迎えたことは確かでしょう。頼朝の妻といえば北条政子が有名ですが、その歴史の陰には悲劇の最期を迎えた前妻・八重姫の存在がありました。
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