【渋沢栄一と岩崎弥太郎】2人の実業家の対立と、「日本郵船」誕生の軌跡

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【渋沢栄一と岩崎弥太郎】2人の実業家の対立と、「日本郵船」誕生の軌跡

株式会社の仕組みを日本に取り入れ500以上の企業に関わった渋沢栄一と、三菱財閥の基礎を作り上げた岩崎弥太郎。同時期に活躍した2人の実業家は、日本のフラッグシップ・キャリアとなった「日本郵船株式会社」の創立に関与しました。しかし、そこに至るまでには、さまざまな背景があったようです。

今回は渋沢栄一と岩崎弥太郎について知りたい人に向けて、当時の日本の時代背景、2人の衝突、政府の方向転換と「日本郵船株式会社」の誕生などについてご紹介します。

当時の日本の時代背景

栄一と弥太郎が活躍したころ、日本はどのような立場にあったのでしょうか? 当時の状況を振り返ります。

明治維新と修好通商条約

幕末の日本は鎖国政策をとっており、開国派と攘夷派が争っていました。嘉永6年(1853)にペリーが来航すると、翌年には日米和親条約、安政5年(1858)には日米修好通商条約を締結し、幕府は開国を余儀なくされます。諸外国の経済力や軍事力に圧倒された日本は、各国との修好通商条約において領事裁判権や関税自主権をもたないなど不平等な締結をしました。これはのちに日本の外交の課題として残り、井上馨らが撤廃のために尽力することになります。

海運会社・郵便汽船三菱会社の誕生

深刻な貿易赤字に苦しむことになった日本は、貿易外収支で改善をはかろうと国際競争力をもつ海運会社や商社の育成に注力しました。この当時、開成館長崎商会の主任、九十九商会の経営者を経て「三菱商会」として海運業を中心に利益をあげていたのが弥太郎です。明治7年(1874)、弥太郎は政府の台湾出兵に際し、ほかの会社が断った軍事輸送を引き受けます。これにより三菱商会は政府に保護され、日本最大の海運会社へと成長。弥太郎は政府御用達の意味を込めて海運部門を「郵便汽船三菱会社」と改め、海運業でトップの座につきました。

一方の栄一は、幕末期にパリ万国博覧会の随員として渡仏し、明治維新以降はその経験を見込まれ官僚として仕官していましたが、明治6年(1873)には退官し、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の総監役に就任しています。

渋沢栄一と岩崎弥太郎の衝突

近代化が進む日本で頭角を現した栄一と弥太郎。しかし、2人の考えはだいぶ異なっていたようです。

合本主義VS専制主義

栄一と弥太郎は、国際災害救助や東京海上保険株式会社の設立などで協力しあっていました。当時の2人は国を豊かにしようという共通の目的をもち、栄一自身も「懇意である」と記すほどの仲だったようです。しかし、根底の経営方針が異なっていたため、あるとき酒宴で激論を交わしたのを発端に、以降は反発しあうことになります。

栄一は「合本主義」を説き、弥太郎は「専制主義」を掲げていました。合本主義とは「公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集めて事業を推進させる」という考え方で、専制主義は「権限とリスクをリーダー1人に集中させて独断的に事業を推進させる」という考え方です。2人は正反対の思想を持っていたといえるでしょう。

弥太郎、渋沢の事業を攻撃!

このころ栄一は、三井物産の社長・益田孝らと「東京風帆船会社」を設立し、海軍業に進出しようとしていました。三井物産は三菱に物資輸送を依頼していたものの、海運業を独占する三菱の運賃は高額で、値下げ交渉にも応じてもらえなかったといいます。そこで益田は海運事業を興すことを決意し、第一国立銀行の頭取だった栄一に相談。栄一は三菱の独占状態を打破すべく協力の手を差し伸べました。これに驚いた弥太郎は、東京風帆船会社の揉み潰し運動に乗り出します。政府の大官に金を渡したり新聞に悪評を書かせたりと、さまざまな手を尽くしたようです。

東京風帆船会社の敗北

『渋沢栄一自叙伝』によれば、弥太郎は東京風帆船会社の株主の一人である廻船問屋のもとに行き、今後は関与しないよう誓約させ新たな風帆船会社を設置させたといいます。また新潟県の商人たちには、東京風帆船会社に関係せず新たに新潟物産会社をつくるよう呼びかけ、その際は三菱から低利で20万円を融資すると誘いをかけました。こうした巧みな方法により弥太郎は周囲の切り崩しに成功。栄一が計画した東京風帆船会社は、創業が認められながらも事業開始に至らず消滅しました。

政府の方向転換と2人の転機

その後、政府内での権力の移り変わりとともに、栄一と弥太郎の動向も変化していきます。2人が迎えた転機とはどのようなものだったのでしょうか?

大隈重信の失脚が三菱の痛手に……

大隈重信の肖像です。

明治11年(1878)に大久保利通が暗殺されると、以後は伊藤博文と大隈重信が政府内で影響力をもつようになりました。弥太郎は大隈と懇意にしていましたが、「明治十四年の政変」で大隈が失脚したため、三菱は後ろ盾

を失ってしまいます。政府系の新聞や雑誌は、政府から莫大な助成金を受け取りながら海運業を独占している三菱を糾弾。政府は三菱に対抗できる海運会社の設立を目論みますが、弥太郎はすかさず「ぜい弱な日本の海運業界が競争で疲弊する」と反論しました。

共同運輸会社の設立

明治15年(1882)3月、大隈重信による立憲改進党が誕生します。その資金が三菱から出資されていると踏んだ政府は、三菱の海運業独占を避けるべく新たな汽船会社の創設を計画。この会社は栄一にとって2年前のリベンジともいえるものでした。

三菱保護から三菱抑圧に方針転換した政府は栄一や益田ら発起人とともに、東京風帆船会社・北海道運輸会社・越中風帆船会社を合併させ、明治15年(1882)7月に「共同運輸会社」を設立します。この会社には政府も巨額の資金提供をしており、戦争など有事の際は海軍商船隊とする規定が盛り込まれていました。

日本郵船株式会社の誕生

郵便汽船三菱会社と、それに対抗すべく誕生した共同運輸会社。その後、この2社はどうなっていったのでしょうか?

熾烈な戦いで経営危機に

郵便汽船三菱会社と共同運輸会社はし烈な競争を繰り広げました。三菱は不採算路線の廃止や経費・人員の削減、大幅リストラなどを迫られ、旅客や貨物運賃の値下げを余儀なくされます。運航の現場でも争いが起こり、衝突事故まで起こったようです。これを見かねた農商務卿・西郷従道(さいごうつぐみち)が両社に30条の協定を結ばせたものの、それもたちまち反故になりました。

こうして三菱がピンチに陥るなか、胃痛で苦しんでいた弥太郎は病床で指示を出し続けます。このころの弥太郎は食事もまともにとれず、医師団がつきっきりで治療にあたっていました。しかし、明治18年(1885)2月7日、ついに胃がんでこの世を去ります。弥太郎の葬儀には各界の要人を含む3万人が参列したそうです。

合併して新会社を設立

競争の結果、両社は深刻な経営危機に直面しました。このままでは共倒れになると判断した政府は、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社とを合併して新会社を設立する方針を打ち出します。郵便汽船三菱会社の社長を継いだ弥太郎の弟・弥之助は、政府の新方針を受け入れ郵便汽船三菱会社を解散。明治18年(1885)9月には両社の事業・資産を継承して「日本郵船株式会社」が発足しました。これにより三菱は大きな危機を乗り越え、結果的に大財閥へと成長していきます。なお、日本郵船会社の「二引の旗章」は、日本の海運業を代表する2社が大合同したこと、また日本郵船が地球を横断するという決意を示していたといいます。

日本のフラッグシップ・キャリアに

国の重要文化財に指定されている日本郵船の「氷川丸」。現在は横浜市で博物館船として公開されている。

日本のフラッグシップ・キャリアとなった日本郵船は徐々に航路を拡大し、明治35年(1902)の欧州極東往航同盟への正式加入をきっかけに海外への航路網を飛躍的に伸ばしました。こうして日本郵船は世界有数の海運会社へと成長。貨物輸送や客船ビジネスなどでも高い評価を獲得し、海外の著名人が乗船名簿に名を連ねるなど多くの渡航者を満足させました。

両雄の対立が海運業を発展させた

渋沢栄一と岩崎弥太郎は、ともに幕末から明治にかけて活躍し、日本の近代化に貢献した実業家です。どちらも傑出した経営者ですが、両者の経営理念はだいぶ違っていました。海運業での2人の対立は、紆余曲折の末に日本郵船株式会社を生み出します。そしてそれは、日本経済の発展へとつながっていきました。

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