2020年3月30日(月)からNHKで放送が開始される新しい朝の連続テレビ小説「エール」。窪田正孝さん演じる主人公・古山裕一(こやま・ゆういち)は昭和を代表する作曲家である古関裕而(こせき・ゆうじ)がモデルです。そこで今回は、誰もが知る名曲を数多く作曲した古関裕而とはどんな人物なのかをご紹介したいと思います。
10歳で楽譜を読める音楽少年 作曲も開始した少年時代
1909(明治42)年、福島県福島市。音楽好きな父親のもとに古関裕而(本名・古關勇治、読みは同じ)は生まれました。父親が購入した蓄音機から音楽が流れる家庭で育った古関は、幼いころからほぼ独学で音楽を学びます。幸いにして、小学校の担任が音楽好きで、指導に力を入れていたことから、10歳ごろになると楽譜を読めるようになり、作曲もするようになったのでした。
戦前の音楽家といえば、歌手の藤山一郎がそうであったように、東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽学部)を卒業した者が多かった時代です。しかし、古関は家業の呉服店を継ぐための勉強をせねばなりませんでした。しかし、旧制福島商業学校(現在の福島商業高等学校)に入学後も、学業より作曲に夢中で、作曲法の本を買って没頭しました。初めて自分のつくった曲が演奏されたのは校内の弁論大会のことで、その感慨はひとしおであったことでしょう。
音楽にますますのめりこんでいく中で、古関は福島ハーモニカ・ソサエティーに入団します。商業学校卒業直前のことでした。そして、当時、日本でも有力なハーモニカバンドであった福島ハーモニカ・ソサエティーにおいて、なんと古関は作曲・編曲・指揮をまかされたのです。
作曲や演奏だけではなく、多くの音楽を聴き、学ぶことも古関は忘れませんでした。当時はそれほど出回っていなかったレコードをみんなで聴く会である「レコードコンサート」が地元で開かれるたびに足を運び、たくさんの作曲家から影響を受けます。リムスキー=コルサコフ、ストラヴィンスキーなどに特にひかれたようです。
しかし、ありあまる才能と熱意を持っていても、古関は音楽に専念するという道を選ぶことはできませんでした。商業学校に入学したのは実家の呉服店を継ぐためでしたが、実家の店は在学中に倒産してしまったのです。独学でしか音楽を学んでいない地方の青年に音楽で食べる力はまだなく、音楽を学べる学校へ進学することもままならなりません。古関は地元の銀行(川俣銀行、現在の東邦銀行)に入社し、働くこととなりました。
ファンレターをくれた女性と結婚!いざ東京へ
しかし、転機はわりと早くやってきました。音楽への思いを捨てきれない古関は、作曲家・山田耕筰の事務所へ楽譜を郵送してみることに。これをきっかけに、山田との手紙のやり取りが始まりました。さらに、福島ハーモニカ・ソサエティーが仙台中央放送局(現在のNHK仙台放送局)のラジオ番組に出演した際に知り合った、仙台在住でリムスキー=コルサコフの弟子・金須嘉之進に師事することに。こうして古関は音楽の道に進路を定めることができたのです。
1929年(昭和4)年、小関は管弦楽のための舞踊組曲「竹取物語」をイギリスロンドン市のチェスター楽譜出版社が募集した作曲コンクールに応募し、入賞を果たしました。これは日本人初の国際的作曲コンクールにおける入賞で、当時の新聞でも大々的に報道されます。「竹取物語」は色彩的で斬新な曲だったという話が残っています。
そんな折、新聞で古関の入賞記事を読んだ愛知県豊橋市在住の内山金子(「エール」では二階堂ふみ演じるヒロイン・関内音のモデル)という女性が、古関にファンレターを書いて送りました。それは大変熱烈なものであったとか。古関はその文面にほだされ、二人の文通が始まります。やがて、いつしか古関のほうがより熱のこもった手紙を金子に送るようになっていきました。そして1930(昭和5)年、二人はついにゴールインします。古関20歳、金子18歳という若い夫婦でした。古関は妻を晩年まで愛し続けたそうです。
金子へのあふれる情熱を楽譜にぶつけるかのように、この時期の古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩「ダイナミック・モーター」や弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させています。しかし、残念なことに現在それらの楽譜はほとんど行方不明になっており、「竹取物語」の所在もわからず、曲を再現することはできません。
結婚した年の9月、レコード会社・コロムビアの顧問・山田耕筰が古関をコロムビア専属の作曲家に推薦。これをきっかけに古関夫妻は福島から上京します。声楽家志望だった金子は、上京後に帝国音楽学校へ入学しました。東京で古関は作曲家・菅原明朗に師事。菅原は「竹取物語」の楽譜を読んで感銘を受け、大絶賛。ほかにも、作曲家でありヴァイオリニスト、指揮者としても幅広く活躍した橋本國彦とも親しくなりました。一方で、山田耕筰の不倫問題を古関が嫌い、彼とは疎遠になっていったようです
音楽家としては順風満帆だった古関でしたが、実家の破産以降は家族を養わなくてはならない立場でもありました。そのため、生活のための作曲も行わざるを得ませんでした。クラシック一筋だった古関には苦しい選択だったかもしれません。しかし、「船頭可愛や」(詩:高橋掬太郎、唄:音丸)が大ヒットし、一躍人気作曲家となったのです。この歌は世界の舞台でも活躍したオペラ歌手・三浦環(「エール」では柴咲コウ演じる双浦環のモデル)も歌い、レコードを出しています。
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