【渡辺綱】頼光四天王の最古参は、鬼退治が得意なイケメン剣士だった!?

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【渡辺綱】頼光四天王の最古参は、鬼退治が得意なイケメン剣士だった!?

安倍晴明や菅原道真など、平安時代に活躍した偉人は数多くいますが、鬼の腕を斬って退治したという逸話を残しているのが渡辺綱(わたなべのつな)という人物です。彼は源頼光とともに様々な怪異と戦った頼光四天王の筆頭として活躍した凄腕武士であり、光源氏のモデルとなった源融(みなもとのとおる)の子孫だったと伝えられています。今回は、そんな綱の生い立ち、鬼退治の逸話やさまざまな伝承についてご紹介します。

頼光に仕えるまで

まずは、綱の生まれから頼光に仕えるまでをみていきましょう。

光源氏のモデル・源融の子孫

京都府宇治市にある光源氏像

綱は、嵯峨源氏の流れをくむ父・源宛(みなもとのあつる)の子として、平安時代中期の天歴7年(953)、武蔵国足立郡箕田郷(現在の埼玉県鴻巣市)に生まれました。『源氏物語』の主人公、光源氏のモデルとなったとされる源融は高祖父にあたり、綱本人も美男子として有名だったとされています。

綱は、のちに摂津源氏・源満仲(みなもとのみつなか)の娘婿である源敦(みなもとのあつし)の養子となります。このとき、義母方の故郷である摂津国西成郡渡辺(現在の大阪府大阪市中央区)に移り住み、苗字を「渡辺」と変えたことで、現在も日本全国にいる渡辺姓(渡辺氏)の祖となった、と伝えられています。

頼光に仕え、「頼光四天王」の筆頭に

綱はやがて京の都に赴き、同じ源氏の血を引く頼光に仕えることになります。頼光は、綱をはじめ「頼光四天王」と呼ばれる4人の優秀な部下を持つことになるのですが、綱は四天王の中でも最古参なだけでなく、強さ・勇敢さともに高く評価されるエピソードも多く、四天王筆頭とされています。

ちなみに、綱の義祖父である満仲は、頼光の父でもあります。綱にとって頼光は義叔父にあたるため、この点も頼光が綱を重用した理由かもしれません。

鬼退治の達人、渡辺綱

綱にはさまざまな鬼退治の逸話がありますが、中でも有名な「酒呑童子退治」と「一条戻り橋の鬼退治」について紹介します。

「酒呑童子退治」お酒を飲ませてだまし討ち!?

大江山の酒呑童子と源頼光主従

酒呑童子とは、京都の北西部にある丹後山地の主峰、大江山に城を構えて平安京を脅かしたとされる鬼の王のことです。江戸時代に渋川清右衛門が出版した『御伽文庫版』によると、酒呑童子は越後(現在の新潟県)に生まれて山寺の稚児となったものの、法師を殺して出奔、大江山にたどり着いたとされています。

当時京では酒呑童子による人さらいが相次ぎ、頼光に鬼退治の勅命が下りました。頼光は綱ら四天王を伴って大江山へ向い、羽黒の行者(羽黒山を中心として仏道、修験道の修行をする者)を装って酒呑童子の住まう鉄の御所に到着します。頼光たちは、神(八幡大菩薩)から授けられた毒の酒(「神変奇特酒」または「神便鬼毒酒」とされる)を鬼に振る舞って酔い潰したのち、隠し持っていた武具で身を固めて酒呑童子の寝所を襲い、首をはねました。さらに配下の鬼も残らず退治してから、首級を持って京に外旋。首級は帝らが検分したのち、宇治の平等院の宝蔵に納められました。

「一条戻り橋の鬼退治」斬られた腕を取り返しにくる鬼

太刀で鬼の腕を斬る渡辺綱

頼光が父・満仲より家督を譲られ当主となったころ、綱は頼光に依頼され、一条大宮へ赴きました。その際、夜道は鬼が出るかもしれないと、頼光は綱に父から譲り受けた太刀・髭切(鬼切安綱)を持たせます。依頼は無事に済み、綱は帰りに一条通りの堀川にある一条戻り橋(京都市上京区堀川に現存する橋。現在の正式表記は一条戻橋)を通りました。

一条戻り橋の真ん中で、美しい女に「家まで送ってほしい」と頼まれ、綱は快諾します。しかし、途中で女は鬼に姿を変え、綱の髻(もとどり)をつかんで空中へ連れ去ってしまいました。綱は名刀「髭切」で鬼の腕を斬り落とし、なんとか逃亡に成功します。

綱は急いで頼光のもとに帰り、事のてん末を報告。頼光が陰陽師である安倍晴明を呼び寄せ、綱の占いをしてもらったところ「7日間は誰にも会わず、屋敷にこもって物忌みをすること」と言われました。綱は言われた通りに屋敷にこもって過ごしていましたが、6日目の夕暮れに綱の養母(叔母とする説もあり)が故郷から訪れます。

実はこの養母(叔母)は鬼が化けた姿であり、綱が物忌みの最中だからと会うのを断ると、「なんてひどい子どもだ」と泣きわめきます。綱が仕方なく招き入れると物忌みの理由を尋ねられ、隠していた鬼の腕を見せた途端、鬼は化けの皮をはがし「これは私の腕だ、持っていくぞ」と叫び、腕を奪って屋敷の破風(屋根の端の部分)を蹴破って逃亡しました。

結局鬼には逃げられてしまうのですが、鬼の腕を一度は斬り落としたという強烈なエピソードにより、髭切は「鬼切安綱」と改名されます。

渡辺綱の子孫

綱の子孫は摂津国の中枢を担う武士団として発展し、「渡辺党」と名乗るようになりました。この場合の「党」とは現在の政党とは異なり、中世日本に多く存在した血縁・地縁などで結ばれた中小武士団の集合体を指す言葉です。

渡辺党は水運業者や港湾業者を統轄するようになり、やがては水軍に関与するようになります。瀬戸内海にも進出して水軍の棟梁といえる存在になっていき、源平の争乱から南北朝にかけて活躍しました。例えば、九州の水軍としてよく知られる「松浦党」も、渡辺党を祖に持っています。日本に渡辺姓が多いのは、全国各地に渡辺党が散らばったからだとされています。

渡辺綱にまつわる言い伝え

その他、渡辺綱にまつわる言い伝えを2つご紹介します。

渡辺さんは豆まきをしなくても鬼が逃げる!?

綱は鬼退治のエピソードに事欠かないほど多くの鬼を討伐してきたため、「渡辺」の姓を持つ家は、わざわざ節分に豆まきをしなくても鬼が怖がって近寄らないとされています。ちなみに、「渡部」や「渡邉」など、漢字が違う姓がありますが、読み方が「わたなべ」であれば同じ効果があるといわれています。

また、頼光四天王のひとりに数えられた坂田金時の姓である「坂田」を持つ家もやはり鬼が恐れて近寄らないため、豆まきをしなくてもいい、という説があります。

髭切(鬼切安綱)が鍛刀されたいきさつ

鬼切安綱は、満仲が「天下を守るためには、それにふさわしい刀が必要だ」と打たせた刀です。このとき刀鍛冶はなかなか良い刀を作れなかったのですが、八幡宮に祈願したところ、刀鍛冶は夢で作り方のお告げを得ます。お告げの通りに作ってみたところ、試し切りで髭まで斬るという切れ味を持った「髭切」、試し切りで両膝を斬り落とした「膝丸」の2振りの太刀が作れたそうです。

この2振りが子である頼光に伝えられ、髭切は綱に貸し出された際に鬼を斬ったことから「鬼切安綱」と呼ばれることになりました。その後も、勝利をもたらす宝刀として代々源氏に受け継がれていきます。

頼光四天王の筆頭は、鬼退治が得意な凄腕武士だった

嵯峨源氏の血を引く源氏の子だった綱は、同じ源氏の流れをくむ頼光に仕えて数々の鬼を退治したという逸話を残しました。「渡辺さんは節分で豆まきをしなくてもいい」とされているのも、綱のこうした鬼退治エピソードが理由だったのです。

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