日本の歴史上には、長く繁栄したにもかかわらず衰退した家がたくさんあります。平安時代の大武士団から発展した豪族で、越前国を拠点に戦国大名として名をあげた越前朝倉氏も、そのような家の一つでしょう。
越前朝倉氏最後の当主である朝倉義景は、大河ドラマ『麒麟がくる』でユースケ・サンタマリアさんが演じることでも話題になっています。義景とはどのような人物だったのでしょうか?
今回は、義景のうまれから地位確立までの経緯、足利義昭や織田信長との関わり、一乗谷城の戦いとその最期についてご紹介します。
うまれから地位確立まで
義景の幼少期については不明な点が多く、詳しい逸話は残されていないようです。ここでは、その地位を確立するまでの経緯を振り返ります。
家督相続し、歴代当主一の官位を得る
義景は、天文2年(1533)越前国・朝倉孝景の長男として誕生しました。生母は若狭武田氏の一族の娘・広徳院(光徳院)といわれています。父の死により16歳で家督を継承し、11代当主となって延景を名乗りますが、当初は従曾祖父・朝倉宗滴が政務や軍事を補佐したようです。その後、第13代将軍・足利義輝から「義」の字を与えられ義景と改名、歴代当主一の地位・左衛門督に就きます。これは朝倉氏が管領・細川氏と縁戚関係にあり、衰退しつつある室町幕府がその力を必要として優遇したからと考えられています。
美濃を落ち延びた明智光秀を助ける
弘治2年(1556)美濃国で斎藤道三とその子・義龍による「長良川の戦い」が勃発。この戦いで浪人となった道三の家臣・明智光秀は、美濃から越前に落ち延びて義景に身を寄せます。光秀はその後10年ほど越前の称念寺の門前に居住し、義景のもとで過ごしながら再起を図りました。このころ、兄の義輝を殺害された足利義昭も朝倉氏を頼って訪問していたため、光秀と義昭はここで知り合い、のちに信長と義昭が繋がるきっかけとなります。
将軍・足利義昭とのかかわり
幕府からも信頼されていた義景ですが、やがてその関わりにも亀裂が入りました。室町幕府最後の将軍となった義昭との関係はどのようなものだったのでしょうか?
足利義輝、暗殺!その裏で義景は…?
永禄8年(1565)将軍・義輝が三好義継らによって暗殺されました。この「永禄の変」により、覚慶(かくけい)という僧侶として生きていた義昭も奈良の興福寺に幽閉・監視されてしまいます。しかしその後、義輝の側近たちに助けられ近江への脱出に成功。この脱出の背景には義景の画策があり、義景は義輝の家臣らと連絡を取り合っていたといわれています。義景は義昭の越前敦賀への来訪を歓迎し、義昭も朝倉家の後援を期待して加賀一向一揆との和睦を成立させるなど、両者の関係は深まりました。
義昭に上洛を求められるも応じず
義昭は正統な血筋による室町幕府の再興を目指し、上杉謙信ら諸大名に上洛するよう書状を送りました。しかし、政治情勢から彼らの上洛は難しく、やがて義景に上洛戦を求めるようになります。ところが、義景の態度が冷淡だったため、義昭は勢いを増していた信長を頼ることを決意。このとき義景が上洛に応じなかったのは、当時の状況を考慮してのことだったようです。なお、この頃の義景は管領のような立場で、『朝倉系図』に管領代と記載されるほどでした。
織田信長との対立と戦い
永禄11年(1568)義昭を奉じて上洛した信長は、地位を確立して勢力を拡大していきます。義景はそんな信長と対立し攻防戦を繰り広げました。
上洛要請を拒否し支城を攻略される
義昭によって室町幕府が再興されると、信長は義昭の命令だとして義景に上洛を求めます。しかし、義景は織田家への従属や長期的な留守を避けるため、2度にわたるこの要請を拒否。信長は叛意ありとして義景を攻めました。
信長に攻められた義景は、支城である天筒山城や金ヶ崎城を奪われピンチに陥ります。しかし、北近江の浅井長政が信長との同盟を破って織田軍の背後を襲撃すると、挟撃された信長は朝倉軍の追撃をかわして京都に撤退。(金ヶ崎の退き口)このとき織田方の有力武将を取り逃がしたことが、信長に再挙の機会を与えることにつながりました。
姉川の戦いで激突!
元亀元年(1570)織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍による「姉川の戦い」が勃発します。このとき朝倉軍の総大将を務めたのは一族の朝倉景健で、徳川軍と対戦したものの側面を攻撃され敗北。『信長公記』によれば、朝倉・浅井軍は1100人ほどの被害をだしたといいます。朝倉軍は3か月後に再度出兵しますが、姉川の戦いで多くの支城を失ったことが不利となりました。
その後も続いた信長との攻防戦
義景は、信長が石山本願寺討伐で出兵している隙に、織田領の近江坂本に侵攻します。信長の弟・織田信治や、重臣・森可成を敗死させるなど成果をあげた義景でしたが、信長軍が近江に引き返してきたため比叡山に立てこもりました。このときは将軍・義昭の和睦調停により勅命講和したものの、再び長政と協力して織田領を攻撃して敗退する結果となり、信長は朝倉軍に協力した過去がある比叡山を焼き討ちしました。
一乗谷城の戦いと義景の最期
信長と戦い続けた義景でしたが、そんな彼にもついに最期がやってきます。それは、長らく繁栄してきた越前朝倉氏の終焉でもありました。
信長の奇襲により敗退する
天正元年(1573)8月、信長は30000人の軍勢で近江に侵攻し、義景もこれに対抗して出陣しようとします。しかし、この頃の義景は家臣からの信頼が薄れており、重臣・朝倉景鏡や魚住景固らは疲労を理由に出陣命令を拒否しました。義景は20000人の兵力で出陣しますが、信長の奇襲により敗退を余儀なくされます。さらには長政との連携も取れなくなり越前への撤退を決意。しかし、これを見抜いた信長から激しい追撃を受け、撤退途中の刀根坂で織田軍に追いつかれ大きな被害を受けました。
一乗谷に帰還するも家臣は逃走し…
義景は疋壇城に逃げ込み、その後に一乗谷を目指しました。そうする間にも次々と兵士らが逃亡し、最後に残ったのは側近わずか10人ほどだったといいます。こうして一乗谷に帰還した義景でしたが、留守を頼んだはずの将兵の多くは朝倉軍の壊滅を知って逃走していました。もはや義景が命令しても、ほぼ誰も出陣しない状況になっていたのです。
炎上する一乗谷、自刃する義景
このような状況から自害を考えた義景でしたが、近臣らに止められ思いとどまります。そして従兄弟・景鏡の進言に従って一乗谷を放棄すると、東雲寺に次いで賢松寺へと逃亡。ところが、信長と通じていた景鏡によって200騎に囲まれ、義景はついに自刃しました。このとき一乗谷では織田軍によって居館や神社仏閣が燃やされ、その炎が3日3晩続いたといわれています。
戦国大名・朝倉氏が滅亡した
越前朝倉家当主のなかでも突出した地位に就き幕府の信頼を得た義景。もし彼が将軍・義昭の上洛戦を請け負っていれば、もう少し違う結果になっていたかもしれません。しかし、信長との戦いは避けて通れなかったでしょう。
義景の死後、その首は京都で獄門に晒されました。景鏡はのちに信長に仕えますが、血族の多くは信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害されています。こうして100年以上続いた戦国大名・朝倉氏は滅亡したのです。
<関連記事>
【明智光秀が再起を願い、拝んだ丸岡城下の仏像とは?】越前に残る光秀のあしあと
【金ヶ崎の退き口】光秀と秀吉が殿を務めた、信長唯一の撤退戦とは?
【義理人情の武将:浅井長政】織田信長との関係とその生涯
コメント