幕末期の旧幕府軍と新政府軍の戦い「戊辰戦争」は1年半に及びました。この戦いはさまざまなドラマで彩られていましたが、そのうちの一つが「江戸城無血開城」です。これにより江戸が戦場にならずに済んだと思うと、交渉を成功させた勝海舟と西郷隆盛の功績は大きいですよね。
しかし忘れてはいけないのが、勝の使者として西郷を説き、二人の会談を実現させた山岡鉄舟(通称・鉄太郎)です。今回は、鉄舟にまつわる六つの逸話をご紹介します。
江戸城無血開城を実現!
鉄舟は、「鳥羽・伏見の戦い」に敗れ寛永寺で謹慎中だった徳川慶喜の護衛をしていました。その際、慶喜から交渉を依頼され、駿府まで迫っていた新政府軍・大総督府の西郷のもとに赴くことになります。しかし鉄舟は西郷を知らなかったため、まずは陸軍総裁の勝海舟を訪ねました。二人は初対面ですぐお互いを評価し、勝は西郷への書状をしたためたといいます。こうして駿府の大総督府へ急行した鉄舟は、さっそく西郷に面談を求めました。
このとき既に江戸城進撃は3月15日と決定されていましたが、西郷は勝からの使者と聞いて面談を行い、鉄舟の誠実な態度に打たれて、その話に耳を傾けます。そして開戦回避の条件として7カ条を提示しますが、鉄舟は慶喜を引き渡すという第1条だけは強く拒みました。このとき鉄舟は「立場を入れ替えて、もし島津の殿様を他藩に預けろと言われたら承知なさるか?」と問うたといわれています。そう問われた西郷は、鉄舟の訴えを受け入れて妥協したそうです。実直で誠実な鉄舟だからこそ、この交渉が成功したのかもしれませんね。
清水次郎長と意気投合した
戊辰戦争のとき、「咸臨丸事件(かんりんまるじけん)」という出来事がありました。
榎本武揚(えのもとたけあき)の艦隊が品川沖を目指す際、台風により咸臨丸が航行不能となったため清水港に入港します。これを発見した新政府軍艦は一方的に砲撃、白旗を掲げて降服しているにもかかわらず多くの乗組員を殺し、遺体を海に捨てました。
反乱軍に加担すれば厳しく処分されるため、誰もこの遺体に関わろうとしませんでしたが、港の警備をしていた清水次郎長はこれを集めて埋葬します。静岡藩の藩政補翼だった鉄舟が事情を聞くと、次郎長は「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もない」と言ったのだとか。この言葉に感銘を受けた鉄舟は次郎長と意気投合し、その後もつきあいを続けたそうです。
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一刀正伝無刀流の開祖となる
鉄舟の母は塚原磯といい、その祖先に剣聖と謳われた塚原卜伝(つかはらぼくでん)がいます。そのためか鉄舟は幼少期から剣術を好み、神陰流(直心影流[じきしんかげりゅう])や一刀流の各派を学び、樫原流(かしはらりゅう)の槍術も極めていました。それほどの達人でありながら、生涯に一人も人を斬らず、動物も殺生しなかったそうです。
明治18年(1885)、一刀流小野家第9代である小野業雄から、小野宗家に伝来する一刀流正統の証「瓶割刀」「朱引太刀」「卍印」を引き継いだ鉄舟は、「一刀正伝無刀流(いっとうしょうでんむとうりゅう)」を開きます。その後は自身の道場「春風館」や、宮内省の道場「済寧館」などで剣術を教え、多くの弟子を輩出しました。精神修養を重んじる彼の剣道観は近代にも影響を与えており、現在でも私淑する剣道家が多いそうです。
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アンパンが大好物だった!
鉄舟は木村屋のアンパンが大好きで、毎日のように食べていたといわれています。木村屋は明治2年創業の老舗で、現在でもお馴染みのパンメーカーです。アンパンは明治7年(1874)に創業者の木村安兵衛と2代目である英三郎によって考案され、その翌年、初めて桜の花の塩漬けが用いられました。花見のため水戸藩下屋敷へ行幸した明治天皇にこのアンパンを献上したのが鉄舟です。安兵衛と鉄舟はもともと剣術を通じて知り合い、たまたまアンパンを試食した鉄舟が「これ、うまいじゃないか」と絶賛したことで天皇への献上が実現しました。鉄舟は木村親子の成長を喜んでおり、「木村屋」の看板を書いて贈っています。
それ以来アンパンは宮内省御用達となり、明治天皇へ献上した日である4月4日は「アンパンの日」とされています。御用達になったことで木村屋は知名度があがり、明治30年(1897)ごろには全国的にアンパンが流行しました。アンパンは今でも木村屋の看板商品として愛されています。
その数100万枚!?多くの書を残した
鉄舟は剣術や槍術だけではなく、書にも秀でていました。書家の弘法大師流入木道(じゅぼくどう)51世の岩佐一亭から書を学んだ鉄舟は、15歳で52世を受け継ぎ「一楽斎」と号します。人に揮毫(きごう)を頼まれた際は断ることなく書いたため、100万枚もの書を残したといわれています。
亡くなる前年の明治20年(1887)からは体調を崩し、勧告に従って絶筆していましたが、自ら建立した寺である全生庵を通して申し込まれた分は例外として引き受けていました。しかし、その分だけでも8カ月間に10万1380枚という膨大な量だったそうです。鉄舟は亡くなる直前まで、扇子4万本の揮毫を続けました。
これだけ多くの書を残した鉄舟ですが、謝礼は自分で使わず、困窮した人間が助けを求めてきたときに与えていたそうです。そのため鉄舟自身はずっと貧乏だったのだとか……。なんとも人柄がにじみ出るエピソードですね。
結跏趺坐で最期を迎えた
明治維新後の鉄舟は、いくつかの役職を経た後、明治5年(1872)から期限付きで明治天皇の侍従を務めました。これは西郷の推薦によるもので、その人柄は明治天皇からも大層気に入られたようです。その後は子爵にまで上り詰めましたが、鉄舟は無欲を貫きました。そして明治21年(1888)、胃がんを患っていた鉄舟は、皇居に向かって結跏趺坐(けっかふざ)したままその人生を終えることとなります。
この日、勝が見舞いにいくと、鉄舟は結跏趺坐のまま「先生、よくおいでくださった。ただいまが涅槃(ねはん)の境に進むところでござる」と言って笑ったといいます。それを聞いた勝は「よろしくご成仏あられよ」と言って去りますが、帰宅までの間に鉄舟の死が伝えられました。死の淵にあった鉄舟が穏やかでいられたのは、彼が長年培ってきた精神力によるものだったのです。
多くの逸話を残した鉄舟
最期まで逸話を残した山岡鉄舟。彼は、幕末から明治初期にかけて活躍した幕臣である勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」に数えられています。「剣・禅・書の達人」として知られるなど、エピソードにも事欠きません。幕末維新期は日本の歴史の中でもさまざまな人物が活躍したため、その名前を聞く機会はさほど多くはないかもしれません。しかし一つ一つのエピソードを知ると、その熱い人間性や実直な人柄に誰もが惹かれてしまうのです。
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