勇猛な武将は戦の華。しかし、その陰で戦を担うのは軍師です。
戦国時代には数々の名軍師が誕生しました。その中でも特に有名な人物を、逸話を交えてご紹介します。
謎に包まれた信玄の軍師、壮絶に散る~山本勘助~
武田信玄の軍師にして異形の男・山本勘助は、放浪の後に武田家へ流れ着きました。
築城に通じていると評価され、城攻めにも功績がありました。また、今川義元の討死を予見するなど先を読む力は抜群でした。
上杉謙信との第4次川中島の戦いで、勘助は「啄木鳥戦法」を提案します。
啄木鳥戦法とは、軍を2つに分け、別働隊に上杉軍を追い立てさせたところで本隊がそこを討つというものでしたが、これは見破られてしまいました。勘助は死をもって責任を取るとし、敵中に切り込んで奮戦の末、討死したのです。
最期は勘助の忠義の生き様を示しているようです。
拾ってくれた信玄に深い忠誠を抱いていたのですね。
嫌味も策のうち!?~直江兼続~
上杉景勝の軍師・直江兼続と言えば、「愛」の兜で有名です。
わずか21歳で上杉家を背負う存在となった兼続は、新田開発や産業育成、商業発展などの内政面で特に力を発揮しました。
そんな兼続は、常に強気な発言をしました。
徳川家康が台頭後、上杉景勝に上洛を要請します。しかし上杉側は拒否し、最後の返答「直江状」は家康を激怒させ、上杉征伐を決意させたのでした。
また、伊達政宗と江戸城ですれ違った時のこと。
兼続が素通りしたことを政宗が咎めました。すると「政宗公とは戦場で何度もお目にかかりましたが、いつも(敗走する)後姿しか拝見しませんので気づきませんでした」と言ってのけたそうです。
これも政宗との逸話ですが、政宗が自慢の小判を大名たちに披露した時のことです。
兼続だけが扇子に乗せていたので、政宗が「手に取って見れば良い」と声をかけました。
すると兼続、「賤しい物に触ると汚れるので」と言い、小判を投げ返したということです。
権力者にも決して怯まず、むしろ強気に出るアクの強さが彼の味ですね。
柔和な外見と裏腹の鋭い知略~竹中半兵衛~
実状が不明瞭なのもまた軍師。
竹中半兵衛もそうした人物です。女性のようにほっそりした見た目だったと言われています。
豊臣秀吉に仕え、調略面で活躍しました。また、織田信長に謀反した荒木村重の元へ説得に向かい、幽閉された黒田官兵衛の息子を、信長に殺される直前で救い出しています。しかし間もなく病に倒れ陣没しました。
半兵衛については、斎藤氏に仕えた時代の逸話が有名です。
酒色に溺れた主君・斎藤龍興に愛想を尽かした半兵衛は、城内の弟を見舞うという名目で武器を隠した箱を携えて入城します。そして隙を見てたった16人で城を乗っ取ってしまいました。その鮮やかさ、彼の智謀が冴え渡っています。
天下を狙う野心家だった!?~黒田官兵衛~
半兵衛と同じく秀吉に仕えた黒田官兵衛は、「両兵衛」と並び称されました。
まだ小寺姓であった時、5000の毛利軍に対し500の小寺軍は、自軍を大軍に見せかける策を成功させ勝利を収めます。
秀吉の各地討伐にも随行し戦功を挙げました。関ヶ原の戦い以降は徳川に降り、戦国を生き抜きます。
しかし彼は天下を狙う野心家だったという見方もあります。
本能寺の変で信長が倒れると、今こそ天下を取る時と秀吉に進言したともいいます。
また、家康に謁見した時に右手を取って感謝されたと息子の長政が報告すると、官兵衛は「その時お前の左手は何をしていたのだ(家康の首を取る機会があったのに)」と叱ったという話もあります。
個性豊かな軍師がいたからこそ、戦国の世はさらにドラマチックになりました。
軍師たちから見る戦国時代には、新しい発見がありそうですね。
(xiao)
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