明治維新を先導した「維新の十傑」のひとり、小松帯刀(1835~1870年)。
帯刀は、薩長の同盟締結や大政奉還を成功させた腕利きの交渉人でした。大河ドラマ「西郷どん」で、どのようにその活躍が描かれていくのか今から楽しみですね。
維新へ向かって爆進する志士達をまとめあげ、無血の改革を目指した帯刀の生き様とは、どのようなものだったのでしょう。
薩長同盟締結の場は帯刀の屋敷だった!名ネゴシエイター本領発揮
坂本龍馬の仲介で、西郷隆盛と木戸孝允との間で締結された薩長同盟。維新の大きな転換点となった薩長同盟は、京都にある帯刀の屋敷で結ばれました。同盟の場に帯刀も同席したといわれています。
28歳の若さで薩摩藩家老になった帯刀は、他の藩との交渉役として活躍。明敏な頭脳をフルに発揮して勝海舟や坂本龍馬と交流するかたわら、維新を目指す志士達を次々と引き合わせていきました。
そしてついに慶応2(1866)年、帯刀は自身の京の屋敷において、薩摩と長州との会合を実現。薩長同盟を締結させたのです。
帯刀は翌年10月の大政奉還の場面でも、ネゴシエイターとしての才能を発揮。大政奉還に抵抗する徳川慶喜や諸大名達を説得しています。帯刀は、無駄な血を流さない交渉術による改革を実践し続けました。
「枕をどうぞ」西郷どんや龍馬に敬愛された人柄とは
帯刀が広く慕われたのは、何よりも彼の誠実さによるものでした。
出身や身分にこだわらず分けへだてなく接する帯刀を、彼を知る誰もが信頼していました。
帯刀は、西郷隆盛よりも身分は上ですが7歳も年下。西郷は初対面の帯刀の度量を試そうと、座敷に寝転がり帯刀を出迎えたといわれています。
けれども帯刀の方が何枚も役者が上でした。不遜に寝転がる西郷に対して「この枕をどうぞ」。
西郷はすぐさま自分の態度を恥じ、帯刀の寛大さに感服したということです。
坂本龍馬も帯刀を慕っていたひとり。
龍馬は慶応3(1867)年、姉の乙女に宛てた手紙の中で、亀山社中の経営危機を救ってくれた帯刀に対する感謝の思いを次のように綴っています。
猶去年七千八百両でヒィヒィとこまりおりたれば、薩州小松帯刀と申す人が出してくれ、神も仏もあるものにて御座候
このように帯刀はその人柄で、関わった人々から厚く信頼されていたのです。
グローバル家老・帯刀自分もパリに行きたかった…
帯刀は、時代の先端を行く国際派でもありました。文久元(1861)年1月に長崎に出張すると、通訳を伴ってオランダ軍艦に乗船。破裂弾の扱い方や水雷砲術から、軍艦の操作方法まで聞きまくりました。
その後も兵器類の研究を重ね、薩摩藩主・島津茂久の目の前で、水雷爆発実験や花火を披露。
これが家老昇進のきっかけになったとも言われています。
慶応3(1867)年、帯刀は33歳、すでに家老職を退いていました。
この年に開催されたパリ万博に、薩摩藩は薩摩パビリオンを出展。本当は自分もパリに行きたかった帯刀は、出展計画中に、大久保利通に宛てて次のような手紙を残しています。
野夫にも是非渡海之事申立候得共願達之向に無之誠に残念之至に御座候
「自分も是非海の向こう=パリのことへ行きたいと上申しましたが、願いは叶わず本当に残念なことです」
誰よりも知識欲旺盛な帯刀のこと、さぞかしパリ万博をこの目で見たかったのではないでしょうか。
帯刀と篤姫の恋の真相は…
2008年のNHK大河ドラマ「篤姫」では、瑛太さん演じる帯刀と宮崎あおいさん演じる天璋院篤姫は幼なじみであり、淡い恋のエピソードが描かれました。しかし残念ながら、実際に面識があったという記録は残されていません。
ただ、篤姫の兄・島津忠敬と帯刀は、薩摩藩吉利領主・小松清猷(きよもと)のもとで共に学んでいたとみられており、篤姫が江戸に出ていた安政2(1855)年に帯刀も江戸城に出仕していたので、ひょっとしたら…?
ちなみに、帯刀は愛妻家としても有名。
江戸、京、長崎とあちこちを駆け回りながらも、病気がちの自分を心配する正室・千賀(お近)を気づかい「大元気に御座候」と手紙に記すなど、少しとぼけた一面も。
日本で初めてハネムーンに行ったのは坂本龍馬・お龍夫妻であるとされていますが、実は小松帯刀・千賀夫妻ではないかともいわれています。坂本龍馬夫妻の新婚旅行の10年前、安政3(1856)年、新婚約3ヶ月目の小松夫妻が、地元・鹿児島の栄之尾温泉に滞在していた記録もあるそうです。
日本の夜明けを見ることなく…〈帯刀〉の名を背負って走り抜けた生涯
帯刀は「篤姫」「龍馬伝」「翔ぶが如く」などの大河ドラマに重要な役どころとして登場しています。それにも関わらず、どうして今ひとつその名が知られていないのでしょうか。その理由のひとつは、明治維新が終わる前に帯刀が亡くなったことにあるでしょう。
幼少時から虚弱だった彼は、慶応4(1868)年の江戸無血開城の時には病床にあり、その場に立ち会うことはできませんでした。西南戦争や明治政府の本格的始動を見ることなく、明治3(1870)年に数え年36歳の若さでこの世を去りました。
死因についてはいくつか説がありますが、亡くなる2年前の肺病、左下腹部にあったが切除できなかった腫瘍など、いくつかの症状記録から、肺結核、脚気、痛風などを患っていたと考えられています。
「帯刀」という名前は、律令制時代における皇太子の護衛官・帯刀先生(たちはきせんじょう)と帯刀舎人(たちはきとねり)に由来するといわれています。この名に導かれるように、帯刀は短い生涯において、多くの志士たちを支え守り続けたのです。
(こまき)
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