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【 戦国哀話!? 】最後まで愛を貫いたイケメン智将 宇喜多秀家

歴人マガジンではいろいろな戦国武将にまつわる逸話をご紹介していますが、今回もまさに歴人マガジンにぴったりの武将がいました。
その人の名は宇喜多秀家。
豊臣秀吉亡きあと、徳川家康や石田三成らとならび「五大老」という重職に付くほどの出世を遂げた戦国大名です。

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おめめもパッチリのイケメン!

そんな彼には、生涯の愛を貫き通した妻、豪姫との逸話があったことをご存知でしょうか。
今日は「戦国一の美男美女カップル」として知られた彼の一生に迫ってみたいと思います。

天下人 豊臣秀吉の養女 豪姫との仲睦まじい半生

備前(岡山)の豪族から身を起こし、戦国の世に打って出たのは秀家の父直家。
中国地方の雄 毛利家とのいくさを続けていた豊臣秀吉は、直家の死後、秀家を重宝し取り立てます。
もともと人材の発掘には天才的な秀吉のおメガネにかなったのは、頭脳明晰なイケメンだったからなのでしょうか。

そんな秀家に15歳で嫁いだのが、同じく秀吉の養女として育てられた豪姫。
実父は加賀百万石の盟主 前田利家という恵まれた境遇で生まれた彼女は、秀吉の正室ねねからも可愛がられたとか。
彼女は秀吉をして「男なら太閤の位を譲れた」とまで言わしめた、美しいだけでなく器の大きな人間だったそうです。

備中岡山城。
備中岡山城。

結婚生活は仲良く、二人は子宝にも恵まれる幸せな生活を送りつつ、秀家は秀吉の下で大活躍。
「三国一の婿どの」としてどんどん出世、備前岡山57万石を収める大大名に。
この頃は秀家、豪姫ともに幸せの絶頂だったはずですが、秀吉の死後、世界はまた動き始め、二人はその運命に翻弄されていきます。

関ケ原で西軍につき、八丈島へ流罪

秀吉の死後、豊臣家を滅ぼそうとする徳川家康と、石田三成を筆頭とする秀吉家臣団との対立が激化。
みなさんもよくご存知の関ケ原の戦いへと突入することになります。

関ヶ原合戦屏風。
関ケ原合戦屏風。

秀吉への恩がある弱冠28歳の秀家は西軍に参加、敗退。
島津氏らの助命嘆願により命は取られなかったものの、息子らと八丈島へ流罪に。
妻の豪姫は同行したいと願いでるも却下、生家である金沢に戻されてしまい、二人の仲は非情にも引き裂かれてしまいます。

時に秀家は34歳、豪姫は32歳。
そのまま二人は会うこともなく、秀家84歳、豪姫は61歳でこの世を去ります。
戦国の世が生んだ、悲しい悲劇のカップルとして二人は歴史に名を残しました。

しかし愛は消えなかった・・・

まさに戦国の世に翻弄された波乱万丈な人生を送った二人ですが、その愛は最後までホンモノでした。
豪姫の前田家からは、1869年(明治2年)に一族が赦免されるまで、1年おきに白米70俵と金子35両、衣類、雑貨、薬品など物資の仕送りが続けられたそうです。

この二人の愛を貫いた生き方を、NHK Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」で7/19,26(火)22:00〜22:45、2週にわたって放送。

ゲストは高橋英樹さん。
ゲストは高橋英樹さん。

歴史上の偉人の生き方を検証しながら、現代へと活用するヒントにするという興味深いコンセプトのこの番組、以前にも豊臣秀吉、徳川家康についてご紹介したことがあります。
【 将とは? 】改めて注目される徳川家康のリーダーとしての資質

19日は秀家と豪姫の前半生、大出世を遂げた秀家とそれを支えた豪姫二人の極意とは?
26日の後編は、引き裂かれた後も愛の絆を切らなかったという二人が、どのようにしてその絆を繋ぎ止めることができたのか?というテーマとのこと。
男も女も、恋人同士でも夫婦でも勉強になること間違いない(笑)

アイキャッチ画像にあるように、今は二人仲良く八丈島で海を眺めています。
通信手段もほとんどない時代、戦場で倒れることもなく生き延び、愛を守りぬき、それが後世に語り継がれるほどなのであれば、この二人の話は「哀話」ではなく「愛話」なのかもしれませんね。

参照元:
先人たちの底力 知恵泉」NHK Eテレ

編集長Y

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