豊臣秀吉が明への遠征を企てた文禄・慶長の役において、文禄2年(1593年)の朝鮮、慶尚道の晋州城攻防戦があります。李氏朝鮮の徐禮元、金千鎰率いる7千の兵が篭城する晋州城を攻略すべく、宇喜多秀家を大将とする日本軍は4万3千で城を包囲します。
が、晋州城は朝鮮半島随一の堅城、日本軍は攻めあぐねます。前年の第一次晋州城攻防戦では3千8百の篭城兵に対して、2万の日本軍は攻略に失敗、やむなく退却しています。
そこで、攻城軍の第一隊、加藤清正、黒田長政軍は「亀甲車」なる装甲車を造ります。雨のように降りそそぐ矢や石をこの亀甲車で防ぎながら、城壁を突き崩すことに成功。加藤軍の飯田覚兵衛や黒田軍の後藤又兵衛らが先を争って城内に突入して、不落の晋州城を陥落させたとします。
記録から読み解く晋州城攻城戦での亀甲車の活躍、その姿とは?
加藤清正の伝記「清正記」によると、晋州城での攻城戦は50日も経ち、加藤清正と黒田長政は両軍揃って攻めることになります。そこで、100疋(匹)の牛を殺してその皮を使って火矢も通さず、亀の甲羅のように強い亀甲車を造ったといいます。
その中に足軽を入れ、城からの攻撃をかわし石垣を崩します。そこに、加藤清正軍の森本儀太夫、黒田長政軍の後藤又兵衛と母里太兵衛、そして、飯田覚兵衛が突入して一番乗りの旗を指し上げたとあります。
また、頼山陽の「日本外史」には、加藤清正が晋州城を攻めるときに、亀甲車を使って城から射下ろす矢や、投げられる石を防いだという記載も。亀甲車は堅板で箱車を作って不燃の牛皮を張り、牛の首を棒に刺して先に掲げ、中に兵が乗り込んだ装甲車であると伝えます。
黒田如水の関ヶ原合戦・九州平定戦において、国東・安岐城を陥落させた亀甲車
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦において、東軍に加わった豊前、中津の黒田官兵衛こと如水は嫡男・長政に5千余の主力をつけて参戦させ、自身は中津に在って兵を集め、1万近い軍を編成して挙兵。西軍に加わった豊前、豊後の諸将の城を次々と襲います。その折の国東・安岐城攻めで、如水は「亀甲車」を使って城壁を崩し、大砲と火矢を撃ち込んで安岐城を開城させています。
晋州城攻城戦における亀甲車は加藤清正の重臣・飯田覚兵衛らが考案したとされますが、一説では、黒田如水が兵法書「孫子」に記される「ふんうん車」を参考に考案したともいわれます。
亀甲車が起源?愛媛県・うわじま牛鬼まつり
毎年夏になると愛媛県の宇和島市でうわじま牛鬼まつりが開催されます。
「牛鬼(うしおに)」は亀甲型の竹組みの枠を布やシュロで覆い、頭と尾を取り付けた山車。これを大勢で担いで町中を練り歩きます。
牛鬼(うしおに)とは本来、西日本に伝わる妖怪。
鬼の頭と牛の体をもち、主に海岸に現れて人々を襲うとされ、各地に牛鬼退治の伝説が残されます。宇和島にも村々を襲う牛鬼を山伏が真言を唱えて退治する伝説があります。
が、江戸期の資料によると、牛鬼祭りの歴史は約200年であり、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に造られた亀甲車が、宇和島の牛鬼の起源であるともされます。文禄の頃、宇和島の領主となった藤堂高虎が文禄・慶長の役に従軍した折に伝えたもので、祭りで吹かれる「かいふき」と呼ばれる竹筒の笛は、加藤清正が亀甲車で攻め入るときに吹き鳴らしたものとされます。
現物はもとより、記録にも殆ど残されないこの謎の装甲車「亀甲車」、私たちの想像力を刺激しますね。
うわじま牛鬼まつりは今週末7月22日(金)~24日(日)開催。亀甲車が起源といわれる牛鬼を見に行ってみてはいかがでしょうか?
(あらき 獏)
参照元
うわじま牛鬼まつり
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