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【 ついに出陣 】「おんな城主 直虎」関係者が語る、井伊直政の初陣と「赤備え」の継承

現在放送中のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」で、大活躍を見せる井伊直政(万千代)。第44回の放送で、ついに初陣を果たしますが、ドラマで描かれた田中城攻めと史実は少し違うようです。今回は、資料提供としてドラマに携わる小和田泰経さんが、史実での初陣から、「赤備え」を継承するまでの直政の活躍をご紹介します。

井伊直政
(彦根城博物館蔵)

直政の初陣と言われる「芝原の戦い」

井伊直政が徳川家康に出仕してまもない天正3年(1575)5月21日、長篠・設楽原の戦いがおこりました。この戦いは周知のように、武田勝頼の軍勢に包囲された長篠城を救援するため長篠に向かった家康と織田信長が、長篠城から少し離れた設楽原で撃破したものです。

ドラマでも大活躍だった「馬防柵」。設楽原(愛知県新城市)には
再現された馬防柵があり、地元の人によって概ね5年に一度造り直されている。

ただし、この長篠・設楽原の戦いに、直政が参加した形跡はみられません。江戸幕府が諸大名に命じて提出させた家譜をもとに編纂された『寛政重修諸家譜』によると、直政が初めて出陣したのは、翌天正4年(1576)2月7日、武田勝頼と交戦した遠江芝原の戦いであるとされています。ちなみに、武士が初めて出陣することを初陣(ういじん)といい、その直前には必ず、初めて甲冑を着せられるという着初めの儀式が行われていました。

長篠・設楽原の戦いで、武田勝頼は大敗を喫しましたが、武田家が壊滅したわけではありません。だからこそ、織田信長も深追いを避け、すぐに甲斐へ侵攻はしなかったのでしょう。長篠・設楽原の戦いで、武田軍は長篠城を失ったものの、徳川方に圧力をかけるため、遠江で攻勢をかけてきていました。

高天神城を制するものが遠江を制する

そのころ、遠江国内には武田方の勢力が入り込んでおり、その拠点となっていたのが、高天神城です。高天神城は、比高、すなわち麓からの高さが100メートルほどに築かれた山城で、「高天神を制する者が遠江を制する」と謳われるほど重要な城とみなされていました。

信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた高天神城(静岡県掛川市)の遠景。
優美な山の形から鶴舞城の別称を持つ。
(写真提供:小和田泰経)

高天神城は、もともとは駿河を本国とする今川氏親によって築かれたものです。その後は、遠江から今川勢を追放した徳川家康の支配下におかれますが、長篠・設楽原の直前にあたる天正2年(1574)、武田勝頼に攻略されていました。そのため、長篠・設楽原の戦いで武田軍に勝利した家康は、高天神城の奪還を図ろうとしたのです。

井伊家の史料である『井伊家伝記』によれば、高天神城に補給しようとした武田軍と衝突したのが芝原の戦いで、このとき直政は、家康の寝所に侵入した忍びの者数人に気がつき、一人を斬り殺し、一人を負傷させて撃退したといいます。

そして、所領がそれまでの300石から3000石に加増されたと記されていますが、具体的に芝原の戦いがどのようなものであったのかは明らかになっていません。同時代の史料である『当代記』によると、武田軍による遠江侵入は天正4年(1576)8月ころから本格化したことになっています。芝原の戦いも、おそらくはそれ以降ということになるのでしょう。

ちなみに今回の大河ドラマでは、直政の初陣を駿河田中城攻めに設定していました。現在の藤枝市に位置する田中城は、武田方による駿河支配の拠点となっていました。家康がこの田中城を攻めるのは天正6年(1578)5月からなので、ドラマ上の初陣はそのころのこととなります。しかし、実際の初陣は、もう少し早かったかもしれません。

史跡田中城下屋敷(静岡県藤枝市)に移築された田中城の本丸櫓。
本丸を中心に直径約600mの同心円状に3重に堀を巡らす、珍しい縄張りだった。

忍びの者を侵入させ、井戸を破壊

武田方が死守する高天神城は、断崖や湿地に守られた天険の要害であり、そう簡単に攻略することなどできません。そこで、家康は天正8年(1580)からは城の周囲に付け城を構築して兵糧攻めにすることにしました。この高天神城攻めに活躍したのが、直政だったようです。

『寛政重修諸家譜』には、天正9年(1581)3月、「武田勢のこもれる遠江国高天神の城をせめたまふのとき、直政、間諜をして水の手を切落し、軍功をあらはす」と記されています。水の手というのは、井戸のことですから、直政は忍びの者を城内に侵入させ、井戸を破壊するという活躍をしたのでした。

結局、味方からの兵糧や弾丸などの補給がうけられなくなった高天神城では、落城が必至という状況に追い込まれていきます。そして、3月22日、ついに城兵は城から打って出ました。もちろん、そうした状況のなかで打って出たからといって、形勢を逆転することはできません。結局、730余名が玉砕したと伝わっています。

高天神城が落城したことで、武田家の勢威は失われていきました。というのも、勝頼が救援に赴くことができず、結果的に城兵を見殺しにした形になってしまったからです。そのため、このころから武田家から離反する家臣も出始めました。そして、高天神城の落城から1年後の天正10年(1582)3月には、織田信長による甲斐攻めにより、武田家は滅亡してしまったのです。

北条氏への交渉役に選ばれる

武田氏の遺領のうち、上野・甲斐・信濃は信長の手に渡り、駿河は家康に分けられました。しかし、それから3か月後の天正10年6月には、本能寺の変で織田信長が討たれ、上野・甲斐・信濃は混乱に陥ってしまいます。そして、混乱に乗じて領有をねらった徳川家康と北条氏直が争うことになりました。これを天正壬午の乱といいます。

両軍は、3カ月近くも交戦しますが、なかなか決着はつきません。そこで、和睦することになったのですが、その使者に選ばれたのが22歳の直政でした。なぜ直政が使者に選ばれたのかはわかりません。使者には相手と交渉する能力が必要ですから、家康が直政に交渉の能力があると認めていたのは確かでしょう。苦労をしてきた直政なら、相手の立場も考慮しながら交渉できると考えたのかもしれません。

直政、武田家の赤備えを継承

天正10年10月に和睦は無事に成立し、甲斐・信濃は徳川領、上野は北条領となりました。家康は、それまでの三河・遠江・駿河3カ国に加え、甲斐・信濃を合わせた5カ国の大名となったのです。このとき、家康は、武田氏の遺臣を多く登用していますが、家康と遺臣らとの取次をしたのが、直政でした。家康が登用した800名ほどの武田遺臣の中で、直政には1割にあたる74名がつけられました。それとともに、直政は武田家の赤備えを継承することにもなったのです。

「井伊の赤鬼」と呼ばれ恐れられた井伊の赤備え。
(「関ヶ原合戦図屏風」より)

赤備えとは、甲冑や旗指物を朱色に統一した軍装のことで、戦場で目立つことからも武勇の象徴とみなされていました。つまり、誰もが赤備えにできるわけではなかったのです。直政にその赤備えが許されたことからしても、いかに家康が信頼していたかがわかるでしょう。井伊家の軍装が朱色に統一され、「井伊の赤鬼」の異名をとるようになるのは、これ以降のこととなります。

ちなみに、『井伊年譜』には、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに際し、直政が井伊家の軍旗について、南渓に尋ねる場面が描かれています。それによると、戦国時代における井伊家の旗は、白地に「井」の字だったようです。そのため、大河ドラマでも、直虎の時代までは、白地に「井」の字の旗が用いられていました。

(小和田泰経)

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