【信長の寵愛、秀吉の信頼】槍の又左と呼ばれた猛将・前田利家

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【信長の寵愛、秀吉の信頼】槍の又左と呼ばれた猛将・前田利家

豊臣秀吉と共に、若かりし頃から信長に仕えた前田利家。「できた」嫁・まつの存在も有名ですが、彼自身も織豊政権においてなくてはならない存在でした。
今回はそんな前田利家の武功など有能さがわかるエピソードをご紹介します。

槍の又左、ここに有り!

「利家初陣の図」
「利家初陣の図」

利家は約182㎝の長身でおまけに美男子ときていましたが、6m30㎝もの長槍を軽々と操って戦場で暴れ回る猛将でした。
又左とは彼の通称「又左衛門」の略です。
元服前にすでに戦場に出ており、顔を矢で射られてもなお「まだ首を挙げていない!」と敵中に飛び込み、敵の首を取って悠然と戻ってきたそうです。
また、姉川の戦いや石山本願寺の戦いなど、信長に従って数々の戦いで活躍しました。苦戦を強いられた石山本願寺との春日堤の戦いでは、退却する味方の中で単身とどまり、敵を倒していたそうです。このため「堤の上の槍」と称されました。
あれだけ長い槍で大男、しかも強いのですから目立ったでしょうね。

汚名は戦場で雪ぐ!

「信長直属の赤母衣衆としても活躍しました」
「信長直属の赤母衣衆としても活躍しました」

【戦国のエリート部隊】若き前田利家も!戦場の華・母衣武者とは

ある時、利家は信長のお気に入りの家臣・拾阿弥と諍いとなり、彼を斬殺してしまいました。
信長は怒り、利家を出仕停止とし事実上の浪人としてしまいます。

しかし何とか信長の信頼を取り戻したかった利家は、まず桶狭間の戦いに無断で参戦し首級を3つ挙げました。
けれど信長の反応が無かったので、翌年も別の戦いに参戦し2つの首を取り、ここでようやく信長に許されたのです。
何としても信長の下へ戻りたかった利家の真っ直ぐな思いと、5つもの首を挙げた武功の凄さに驚きます。

実はケチ?倹約家?算盤を駆使して財政を支えた利家

「利家が整備した金沢城と城下町」
「利家が整備した金沢城と城下町」

浪人生活で苦労したためか、利家はケチ・・・というか倹約家でした。前田家の決済はすべて自分で行ったそうですよ。

その時使っていたのが算盤です。
当時、算盤は新しいもので使いこなすのも大変だったはずですが、利家はそれを駆使して前田家の財政を支えていたのです。他の大名たちにも貸し付けていたほどでした。
利家の努力により財政は安定、後の加賀百万石の基礎となったのです。まつに嫌味を言われても、こればかりは曲げなかったというわけですね。

実は戦略家か、友情を取ったのか?究極の選択

「利家の撤退を責めなかったという柴田勝家」
「利家の撤退を責めなかったという柴田勝家」

利家はかつて柴田勝家の与力でした。
そのため、信長の死後に起きた賤ヶ岳の戦いでは、柴田方に付いたのです。しかし利家は戦の半ばで突如撤退し、これによって秀吉軍が勝利をものにしました。
時勢を見定めたのだという意見もありますし、主でもある勝家と親友・秀吉との間で板挟みとなり、苦渋の決断に至ったのだとも言われています。

困った時には「前田利家」

「長身の美男子だったという前田利家」
「皆に頼られ、慕われた利家」

利家は足軽時代から秀吉と仲良くしていたので、秀頼の後見を頼まれるなど信頼は絶大でした。唯一秀吉に意見できる存在だったそうですよ。

そんな利家は武断派・文治派問わず多くの人々に慕われ、晩年は彼らの仲裁役でもありました。
そんな利家が亡くなったのは、秀吉の死からわずか8ヶ月後のことでした。
利家が亡くなった途端に石田三成襲撃事件が起きたほどですから、彼の存在がストッパーとなっていたことは明らかです。
彼が存命だったなら、関ヶ原の戦いは起きていたのでしょうか。

こうして見てくると、利家はバランス感覚に優れた人物だったのかなと思います。
戦場で功を挙げた後は政権中枢で重きを成す、簡単なようで難しい変わり身に成功したのではないでしょうか。だからこそ多くの人に慕われたのだと思います。

(xiao)

参照元
金沢城公園ホームページ

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