【信長や家康も経験】肉親を殺さなければならなかった戦国武将たち

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【信長や家康も経験】肉親を殺さなければならなかった戦国武将たち

突然ですが、皆さんは家族仲はいかがでしょうか?円満な方も、大なり小なり抱えている方もいらっしゃると思います。時に戦国時代は、その家族仲によっては、肉親同士の殺し合いに発展してしまうこともありました。織田信長徳川家康は、こうした経験を経て、天下人となったのです。今回は、肉親に手をかけざるを得なかった戦国武将たちを紹介したいと思います。

織田信長、聡明との誉れ高き弟を謀殺

織田信長
(長興寺蔵)

織田信長と言えば、若い頃は「うつけ者」として知られていました。父親の葬儀では抹香を投げつけたとか……。それに対して、同母弟の信行(信勝)は葬儀の場でもきちんとしており、聡明の誉れ高かったと言われています。
そのためか、信行が家督を継ぐべきだという一派もいました。そして、信行自身も当主が名乗る「弾正忠」を勝手に名乗り出し、しかも信長の舅・斎藤道三が討死した(道三も長男の義龍に殺された)のをチャンスと見て、弘治2年(1556)に反信長の兵を挙げたのでした。

しかし結果は敗戦。兄弟の母・土田御前の取り成しにより信長は信行を赦免しますが、信行は翌年にまた兄への謀反を企てます。この時、信行の家臣だった柴田勝家が信長に密告したため、信長は激怒。病気になったと偽り、信行を清洲城へ見舞いに来させ、そして殺害してしまったといいます。これが、弘治3年(1557)年11月2日のことでした。

当時の信長の本拠地・清洲城(愛知県清須市)で信行は殺されたという。

徳川家康、息子・信康に切腹を命じた謎

徳川家康
(大阪城天守閣蔵)

関ヶ原の戦いの際、「信康が生きていたなら」と嘆いたという家康ですが、信康に切腹を命じたのは他ならぬ家康自身でした。

松平信康
(勝蓮寺蔵)

信康は家康と正室・築山殿との間に生まれた嫡男で、織田信長の娘・徳姫と結婚し、若い頃から武勇に優れていたため、家康も期待していたと言います。
そんな信康が突如切腹させられたのは、天正7年(1579)、21歳の時でした。理由について明確なことは判明せず、そのため、多くの説がありました。

ひとつは、徳姫と不仲になり、彼女がそのことを手紙に書いて父・信長に送ったからとも言われています。それを読んだ信長が、家康に信康の切腹を命じ、立場的に逆らえなかった家康がやむなく受け入れたとも。また、信康自身が勇猛であるがゆえに、乱暴な振る舞いがあったからだという説までありました。

信康が切腹させられた二俣城(静岡県浜松市)。
(写真提供:浜松観光コンベンションビューロー)

しかし近年の研究では、徳川家臣団の分裂を避けるため、家康自身のやむを得ない選択だったと言われるようになりました。織田も武田も領土を着々と広げる中、織田のもとで生きるか、武田と組むか、生き残りをめぐって、浜松の家康と岡崎の信康の意見が分かれ、それぞれの家臣団を巻き込み、結果、父が子を殺す悲劇に発展したというものです。

いずれにせよ、信康を切腹させたことは、家康にとっては痛恨だったでしょう。

家臣のクーデタを黙認?大友宗麟、父を害す

二階崩れの変の後、大友家を全盛に導いた宗麟(義鎮)。
(写真提供:公益社団法人ツーリズムおおいた)

大友宗麟(当時は義鎮)の父・義鑑は、嫡男である宗麟よりも側室の子・塩市丸を溺愛し、そちらを後継ぎにしたいと考えるようになりました。そして、義鑑の方から仕掛け、宗麟の側近たちを謀殺していったんです。嫡子派VS当主派の対立となりました。
そして、天文19年(1550)、宗麟派の家臣たちが義鑑や塩市丸らを急襲したのです(二階崩れの変)。塩市丸は殺され、義鑑は重傷を負い、その後死亡しました。

こうして宗麟は当主となりましたが、父に加担した傅役・入田親誠をすぐに討伐・殺害しています。一応、家臣たちの反乱ということになってはいますが、九州に名を成した大友宗麟が、それを知らないはずはなかったという説もあるんですよ。

骨肉の争いは戦国時代に付き物とはいえ、後味の良いものではありませんよね。肉親だから余計に憎さが倍増するのかもしれませんが、こうして見てくると、いまの家族のありがたみを改めて感じられるのではないでしょうか。

(xiao)

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