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【征韓論をわかりやすく】関連する人物とそれぞれの主張とは?

【征韓論をわかりやすく】関連する人物とそれぞれの主張とは?

日本史でも特に人気があり、大きな歴史な転換期となった明治維新。征韓論は近代化に向けて政治的・社会的変革が進む明治初期に巻き起こり、その結末は大きな政治事件へとつながっていきました。征韓論とは一体どのような主張で、どんな人物が関わっていたのでしょうか。

今回は、明治初期の政治に大きく影響を及ぼした征韓論について解説します。

征韓論とは?

征韓論は、明治新政府発足後の日本で唱えられた「朝鮮を武力によって開国させよう」という主張です。当時の朝鮮は李氏朝鮮という王朝が400年以上続き、鎖国が基本的な政策としてとられていました。それに対して当時の日本の政治家たちは国防的な観点と、朝鮮が新政府の正当性を認めようとせず排日の色を強めていったことから、武力による開国を迫るべきだという意見を持つようになったのです。一見すると物騒な話ですが、当時の日本の状況下を考えると意味のあるものでした。しかし征韓論をめぐって明治政府内で賛成派と反対派の論争が沸き起こっていきます。

征韓論派の人物について

副島種臣

征韓派の副島種臣。佐賀藩士でした。

征韓論を唱えていたのは、明治維新でも活躍した江藤新平板垣退助たちで、大久保利通や木戸孝允ら岩倉使節団の欧米視察の時に日本に残っていた留守政府の首脳でした。征韓論というと中心人物の一人として西郷隆盛の名前が出てきますが、西郷の考えは江藤、板垣らとは少し違っていました。西郷は朝鮮への出兵にはむしろ反対で、まず自らが使者として朝鮮に赴くといういわば「遣韓論」と呼ばれる立場にたっており、主戦派を抑える側に回っていました。
征韓派の主な人物は、下記の通りです。

  • 西郷隆盛
  • 板垣退助
  • 江藤新平
  • 副島種臣
  • 後藤象二郎

征韓論に反対した人々

大隈重信

非征韓派の大隈重信。副島と同じく佐賀藩出身です。

この征韓論に対して真っ向から反対したのが、大久保利通・岩倉具視・木戸孝允など岩倉使節団として欧米を視察してきた政治家達でした。彼らは欧米と日本との国力の違いをいやというほど見てきて、今の日本は内政の充実と国力の増強が第一で、国外のことに干渉したり戦争をしたりする余裕がないことをひしひしと感じていました。そのため、いま朝鮮への出兵は時期尚早と反対したのです。
非征韓派の人物は、下記の通りです。

  • 岩倉具視
  • 大久保利通
  • 木戸孝允
  • 大隈重信
  • 大木喬任(おおきたかとう)

西郷たちが征韓論を唱えた理由

地球儀

武力をもって朝鮮を開国させるという征韓論ですが、なぜそのような議論がされるようになっていったのでしょうか。それは、当時の日本が置かれていた複雑かつ困難な状況が背景にありました。

迫りくるロシアの脅威

当時から日本の北方には強国ロシアの存在がありました。国土の大部分が極寒の地で不凍港などが少ないことから、歴史的に南下が重要な政策となっていたロシア。幕末には対馬にロシアの船が現れ、強引に土地を占拠し滞留するという事件が起きていました。また樺太の領有権を日本と争うなど、日本、朝鮮はロシアの南下政策の脅威に常にさらされる状況下にあったのです。日本にとっては万が一朝鮮をロシアに占領されてしまったら、自国の防衛がより難しくなります。だからこそ朝鮮に対して開国をして国力を上げるよう働きかけつつ、国防体制を整えることが急務でした。

朝鮮による日本政府の国書の拒否

李氏朝鮮の国旗

李氏朝鮮の国旗。当時の朝鮮は、「李氏朝鮮」という400年以上続く王朝でした。

朝鮮は江戸時代に鎖国政策をとっていた徳川幕府にとって数少ない交流のある国でした。しかし日本国内での征韓論の存在や、日本が鎖国を解き欧米化を目指したことなどから朝鮮政府は態度を硬化させ、日本政府が幾度となく送った国書の受け取りを頑なに拒否し続けたのです。対日感情の悪化した朝鮮では在留日本人と交流した朝鮮人を罰する布告が出されました。この乱暴な布告に、日本国内でも朝鮮に対する反発や在留日本人保護のために出兵する気運が高まっていきました。

「明治六年の政変」にいたった経緯とは?

征韓議論図

征韓議論図です。中央に着席しているのが、西郷隆盛。

日本では征韓論を巡って大きな政争が起きます。留守政府組の西郷・板垣らと使節団帰国組の岩倉・大久保らが対立し、結果的に「明治六年の政変(征韓論政変)」と呼ばれる大きな政治事件を引き起こしました。

西郷の朝鮮派遣が決定!

岩倉使節団の帰国後、岩倉・大久保たちは国内での征韓論の高まりに驚き、大反対しました。当時の日本には琉球の帰属問題や樺太、千島列島の領有権問題、不平等条約の改正など他にしなければならないことが多くあったからです。しかし明治6年(1873)10月の閣議で西郷の朝鮮派遣が決定されます。

当時明治政府は、薩摩・長州出身者が大きな力を持っていました。その薩摩の代表各である西郷が閣議の場で朝鮮派遣が認められない場合、辞職すると発言したのです。これを受け、当時の太政大臣、三条実美は西郷が辞職した場合、薩摩出身者が明治政府から大量離脱してしまうことを懸念し、西郷の朝鮮派遣に賛成。西郷の朝鮮派遣が決まり、奏聞する運びとなります。

土壇場で朝鮮使節派遣が中止に!

これに対して大久保は辞表を提出し、反対の意志を示しました。朝鮮使節派遣の賛成派と反対派の板挟みになった三条実美は、その重圧に耐えられなくなり倒れてしまいます。そうした中、岩倉使節団の代表で、征韓論に反対だった岩倉具視が太政大臣代理に就いたのです。西郷らは岩倉に使節派遣を明治天皇に上奏することを求めますが、派遣をどうしても止めたかった岩倉は派遣決定の上奏とともに、自らの意見である派遣中止も上奏しました。結局、明治天皇は朝鮮使節派遣中止を選ばれたため、西郷の朝鮮派遣は幻となったのです。

多くの辞職者を出す事態へ

この決定に憤慨した西郷、板垣、江藤らはすぐさま辞表を提出。参議などを辞職し、明治政府を去ります。彼らは明治政府の中でも影響力が大きく、中でも西郷は薩摩勢力の指導者的な立場にありました。そのため、西郷らの辞職を受け、約600人もの官僚・軍人が明治政府を辞職します。この一大政変を、「明治六年の政変」といい、明治政府から離脱した彼らは後に地方で士族の反乱の主導者となっていきました。

西南戦争につながった征韓論

当時の日本が置かれた複雑な状況と、朝鮮との関係悪化などから生まれた征韓論。その賛否を巡り明治政府内の意見は真っ二つに割れ、政争に発展してしまいます。結果、征韓論は敗れ、西郷、板垣らをはじめ多くの官僚や軍人が辞職するという大きな政治事件となりました。そしてこの時、下野した征韓派によって各地で不平士族の乱や自由民権運動が起こっていきます。そして最後には、西郷隆盛による西南戦争という日本最後の内戦へと至ってしまったのです。

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