【本当に剣の達人だった!?】剣豪将軍・足利義輝が見せた剣技と最期の戦い

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新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、第21回をもって放送が休止中となっている大河ドラマ『麒麟がくる』。撮影再開により、ぼちぼち続きの放送のニュースも届くのではないかと期待が高まるところだ。
そこで今回は、再開後の盛り上がりに期待しつつ、そのなかで描かれるであろう室町幕府の第13代将軍・足利義輝の「最期」の様子に注目してみたい。

足利義輝肖像の下絵と伝わるもの。痘痕が描かれ、よく知られる肖像画よりリアルと評される。(土佐光吉 画) 京都市立芸術大学芸術資料館収蔵品

桶狭間の戦いの前年にあたる永禄2年(1559)、織田信長は京へのぼり、将軍義輝と謁見した。このときの信長の上洛目的は、何だったのか。

おそらくは、尾張の新たな統治者であることを公式に認めてもらうことであったと考えられている。どれほどの効果があったのかは不明ながら、室町幕府の体制下にあっては、将軍と謁見するだけでも己の存在を諸国に知らしめることにつながったに違いない。

『信長公記』によれば、信長は数日間在京し、京都・奈良・堺を見物。将軍との謁見に際しては「装いを凝らし、金銀飾りの大刀を誇らかに差した」とある。刺客に襲われそうになる一幕もあったが、公用はつつがなく済んだ。ただ会見自体がどのような様子だったのか、何か言葉を交わしたのか。そういった気になる点を『信長公記』は、答えてくれない。

そこで同時代の記録を見てみたい。ポルトガルから来た宣教師ルイス・フロイスの『日本史』である。のちに織田信長とも親密な関係になった彼は膨大な量にのぼる貴重な手記を『日本史』として残し、当時の日本および日本人の様子を伝えてくれている。

横瀬浦公園のルイス・フロイス像 ©長崎県観光連盟

フロイスは、永禄3年(1563)に来日した。すでにルイス・デ・アルメイダ、ガスパル・ヴィレラなどの宣教師が日本におり、キリスト教の布教活動を熱心にやっていた時期である。フロイスは、まず九州での布教活動をしたのち、都での布教をめざして京へ向かった。

そして永禄8年(1565)正月、フロイス一行は将軍・足利義輝への年賀の挨拶をするため、将軍家の二条御所へ出向く。この3年前にガスパル・ヴィレラが義輝と謁見し、布教の許可は得ていたが、改めてのご機嫌伺いというわけである。その様子を『日本史』の記述から追ってみたい。

「正月、すなわち第1月を意味する日本人の新年の祭りは、我らの暦(西暦)の2月1日にあたった。この日は祝日の中でもっとも祝われ、この際、奉仕する者は主君を、友人や親族は互いに訪問しあうことが一般的な風習である」

すでに300~400人あまりの貴人が各地から集まっていたという。フロイスたちはしばらく控室で待った後、邸内へ通された。

足利義輝が住んだ将軍家の二条御所があったあたり(京都府京都市上京区)

「我々は塗金した屏風で囲まれ、すべて木造の贅沢で華麗な部屋に入った。公方様(足利義輝)は、この時の大勢の来訪に対して、時間の許す限り丁重に応接した。それから別室に続く扉が開いた。この一室には奥方が坐していて、喜んで我々を迎えた。それから我々は丁重に挨拶した後に、同じ囲いの中にある公方様の母堂(母)の邸に赴いた。」

「贅沢で豪華に飾られた四つ五つの居間を通った。母堂がこの来客たちを迎えた部屋には、多数の貴婦人たちが坐していた。盃が運ばれ、まず彼女がそれで味わった後、そこの貴婦人の一人にそれを客のところへ持参させ、母堂は手ずから箸(食べるのに用いる棒)で、肴を客に与えた。」

記録によれば、義輝の母・慶寿院は宣教師たちが日本の礼式に慣れた様子であるのを見て「驚くべきこと」と言ったという。フロイスは彼女を「身体つきが大きい年老いた婦人で、はなはだ威厳があった」と記した。また、彼女の近くに美しい祭壇があり、そこに小児の形をした阿弥陀像があったなど、邸内の様子を丁寧に書いている。

こうして将軍との謁見を終えた宣教師たちは、都での布教活動を許された。ところが5ヵ月が経った5月19日、畿内の情勢を一変させるほどの大事件が起きる。将軍義輝暗殺事件、すなわち「永禄の変」である。

河内の飯盛城主・三好義継が、三好三人衆や松永久通(久秀の息子)とともに1万2000の兵で将軍邸を取り囲んだ。三好軍は将軍邸の警護に来たことをよそおって攻撃を開始したという。

足利義輝は最期を悟ったが、少しも慌てず、家臣たちにそれまでの労いの言葉をかけた。さすがは、塚原卜伝(ぼくでん)から指導を受け、剣技に磨きをかけた「剣豪将軍」とまで呼ばれる義輝。実に肝が据わっていたといえよう。

「公方様は元来、はなはだ勇猛果敢な武士であったので、ナギナタを手にし、まずそれで戦い始めたが、彼は数名を傷つけ、殺したので、一同はきわめて驚嘆した。彼はいっそう敵に接近しようとしてナギナタを投げ捨て、刀を抜き、勇敢な態度を示した。」

襲撃されるも奮戦を見せる義輝。「絵本石山軍記」より

「だが敵は、幾多の弓、矢、銃、槍を携えて来ており、彼ならびにそのわずかの部下たちは、武装に欠け、大小の刀剣を帯びているに過ぎなかったので、敵勢は彼の胸に一槍、頭に一矢、顔面に刀傷二つを加え、彼がこれらの傷を負って地面に倒れると、敵はその上に襲いかかり、おのおの手当り次第に斬りつけ、彼を完全に殺害した」

フロイスは伝聞による将軍の最期を『日本史』に子細に書いている。むごたらしいが、その見事な散り際は「剣豪将軍」の名にふさわしいものであったといえよう。

オランダ人の宣教師・モンタヌスが描いた、義輝襲撃の様子。フロイスなどの記録を読んで想像で描いたもの(『東インド会社遣日使節紀行』より)

将軍・義輝が惨殺され、庇護者を失ったフロイスらは京での布教ができなくなった。彼らはやむなく、堺のあばら家でむなしい時を過ごしていたが、それから3年後の永禄11年(1568)に状況が一変する。信長が、義輝の弟・義昭を奉じて上洛し、新たな京の支配者となるのだ。その後、フロイスらは信長に接近して、改めてキリスト教の布教の許しを願うこととなる。

義輝の腕前を示す記録はいくつかあり、そのなかで注目に値するのが柳生宗矩(やぎゅう むねのり)の言葉であろう。宗矩はあるとき、小倉藩主の細川忠利から雲林院 弥四郎(うじい やしろう)という兵法家の実力を尋ねられたことがあった。それについての返信が熊本県に伝わる『岩尾家文書』に残る。

「弥四郎は大変な兵法家(武芸者)です。彼の父は塚原卜伝(ぼくでん)の弟子で、足利義輝・北畠具教(とものり)など(と並ぶ)天下に5〜6人もいないほどの兵法家でした。その全てを弥四郎は相伝しています。とくに槍にかけては当代随一です。お引き回しのほどをお願いします」

ここに挙げられる雲林院弥四郎は、宮本武蔵とも試合をしたといわれている(『二天記』)。このなかに名前が出ている義輝が、いかに達人であったか伺えよう。ちなみに北畠具教も剣豪大名として知られた人だったが、天正4年(1576)に信長に謀殺されてしまった。(その際に19人の刺客を斬り倒したとの伝説が残る)

一説によれば、義輝は最期のときに愛蔵の刀を床の畳に何本も突き立てて戦い、刃こぼれが生じると新しい刀を抜いて戦ったという。それらの刀は「三日月宗近」「大包平」「九字兼定」「朝嵐兼光」「綾小路定利」など刀剣ファン垂涎のものであった・・・といわれるが、それはどうやらフィクション。彼が実際に使った刀がどんなものであったのかはわからない。

ただ、その貴重なコレクションが、1本だけ今に伝わっている。それが、東京国立博物館が所蔵する国宝「大般若長光」(だいはんにゃながみつ)という秘刀だ。

これは鎌倉時代、備前国(岡山県)の刀工・長光が作ったと伝わる。「大般若」の由来だが、室町時代に銭600貫(現在の数千万から1億円近い)という大変な値がついたことがあった。経典「大般若経」の全600巻と同じ数字であることから「大般若」と呼ばれるようになったという。

長光の刀が何本かあるなかで「大般若長光」は、足利将軍家の所蔵となり、大事に伝えられていたようである。しかし、「永禄の変」のときには、すでに義輝の手元になかった。先に三好長慶に下賜されたのち、織田信長の手に渡っていたのだ。

足利義輝の愛刀だった「太刀 銘 長光(名物 大般若長光)」鎌倉時代 13世紀 東京国立博物館所蔵 ※画像引用元

信長は、姉川の戦い(1570年)の後、徳川家康へ「大般若長光」を援軍の返礼として贈った。さらに長篠の戦い(1575年)で、長篠城を守り抜いた奥平信昌に贈られて、それが子孫に伝えられた。昭和14年(1939)からは東京国立博物館の所蔵となり、今に至っている。

義輝の手元を離れたことで、奇しくもその姿を現代にとどめることになった「大般若長光」。国宝につき、なかなか直接は目にすることはできないが、最近では2019年に「室町将軍 – 戦乱と美の足利十五代 -」(九州国立博物館)で展示された。剣豪将軍・足利義輝の愛刀は、その数奇な運命を映すかのような静かな輝きを秘めている。

文・上永哲矢

 

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