【戊辰戦争のきっかけとは?】関連する出来事から経緯までわかる

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【戊辰戦争のきっかけとは?】関連する出来事から経緯までわかる

戊辰戦争といえば幕末最後の戦いとして有名ですよね。この戦いの末、多くの犠牲とともに明治という新たな時代が幕を開けることになりましたが、一体なぜこのような戦争が勃発したのでしょうか。

今回は、戊辰戦争のきっかけと経緯、加えて関連する事件などを解説します。

戊辰戦争とは?

戊辰戦争は幕末におこった旧幕府軍と新政府軍の戦いです。慶応4年(1868)1月の鳥羽・伏見の戦いを皮切りに1年以上続いた戦いは、明治2年(1869)5月の箱館戦争で終結しました。その間にも東北を中心にいくつもの戦いがあり、これらを総称して「戊辰戦争」と呼んでいます。開戦した年の干支が戊辰だったため、この呼称がつけられました。

官軍となった新政府軍

戊辰戦争時の錦の御旗
錦の御旗。戊辰戦争時に新政府軍が用いました。

官軍とは君主に属する正規軍のことで、日本では天皇や朝廷の軍を指します。薩摩や長州、土佐藩が中心となった新政府軍は、官軍であることを示すために“錦の御旗(錦旗、菊章旗)”を掲げました。錦旗は古来より官軍の証として使用されてきたもので、武士階級の必読書である『太平記』にもしばしば登場します。そのため、実物を見たことはなくとも錦旗が持つ意味を兵士たちは十分に理解していました。この効果は絶大で、「官軍」となった新政府軍の兵士たちの士気は多いに上がり、戦況を有利に進めることになったのです。

賊軍とされた旧幕府軍

新政府軍が錦旗を掲げたことにより、反抗する旧幕府軍、会津藩や庄内藩、そして奥羽越列藩同盟に参加した東北諸藩は「賊軍」とみなされました。奥羽越列藩同盟は、新政府に追悼命令を下されていた会津・庄内両藩の赦免を嘆願するために結ばれたものでしたが、新政府側が嘆願を拒否すると計31藩による軍事同盟へと変化していきます。やがてこの同盟は輪王寺宮の北白川宮能久親王を盟主とした東日本政府樹立を計画しますが、会津戦争が激化するなかで列藩同盟に脱落者が続出し、結局実現することはありませんでした。

きっかけになった事件を紐解く

鳥羽・伏見の戦いで始まった戊辰戦争ですが、旧幕府軍のトップである徳川慶喜は当初開戦を望んでいませんでした。両者の武力衝突の裏には、きっかけとなる事件があったのです。

大政奉還と王政復古の大号令

大政奉還図
邨田丹陵が描いた大政奉還図です。

慶応3年(1867)10月14日、将軍・徳川慶喜は大政奉還を受け入れ、天皇に政権を返上します。これにより江戸幕府は終焉を迎えますが、徳川は依然として権威をもつ武家のままでした。慶喜には「朝廷は政治能力がないため、列侯会議を主導し徳川政権を存続させよう」という目論見があり、大政奉還は国内の内乱を防ぐための打開策だったともいわれています。

これを阻止し旧幕府勢力を一掃したいと考えていた倒幕派は、「王政復古の大号令」で天皇中心の政治体制の復活と新政府樹立を宣言し、同日夜には慶喜に対して辞官納地(役職を返上し領地を差し出すこと)を求めました。しかし、その強引なやり方は旧幕府の怒りと諸藩の同情を買い、ついには王政復古の大号令に対して撤回を求める動きが見え始めます。そこで薩摩藩は、現状打破のため武力による強硬手段に出たのです。

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江戸薩摩藩邸の焼討事件

薩摩藩は慶喜不在の関東で、わざと旧幕府勢力の怒りを買うために各地で騒動を起こさせます。攘夷過激派の浪士を薩摩藩邸に召集し、陣屋襲撃・放火・暴行などをさせた後、自分たちの仕業とわかるようにわざと薩摩藩邸に戻らせました。さらに会津藩と並び佐幕派の双璧と呼ばれていた庄内藩お預かりの新徴組屯所を襲撃します。庄内藩ら旧幕府勢は賊徒の引渡しを要求しますが、薩摩藩がこれを拒否したため、薩摩藩邸を焼き討ちしてしまいました。

新政府軍との衝突を避けるべく慶喜は大阪城に退去していましたが、この知らせを聞いた城内の幕臣や会津、桑名の藩兵たちの怒りを抑えることができないと悟ると、薩摩討伐を宣言して京都に進軍しました。これが鳥羽・伏見の戦いにつながります。旧幕府勢力はまんまと薩摩藩の仕掛けた罠にはまってしまったという訳です。

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鳥羽・伏見の戦いで開戦!

鳥羽・伏見の戦いにより始まった戊辰戦争は、蝦夷地(現在の北海道)を舞台とする箱館戦争まで続いていきます。その間にはさまざまなドラマがありました。

勝海舟による江戸城無血開城

勝海舟
江戸総攻撃の回避に成功した勝海舟。

鳥羽・伏見の戦いの後、新政府総裁・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)のもと、新政府軍は江戸に向けて進軍。3月15日を江戸総攻撃の日と決め、全軍に江戸を包囲させていました。それに対し、旧幕府側の陸軍総裁・勝海舟は、新政府軍の西郷隆盛のもとに山岡鉄太郎(鉄舟)を送りこみ、戦闘回避の意を伝えたのです。

このような事前交渉を経て、慶応4年(1868)3月13・14日の2日間にわたり、勝海舟と西郷隆盛、そして徳川家側の最高責任者である会計総裁・大久保一翁による江戸開城交渉が行われました。交渉は無事にまとまり、翌日に予定されていた江戸総攻撃はぎりぎりのところで回避されることになったのです。

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奥羽越列藩同盟と東北戦争

東北・北陸諸藩による奥羽越列藩同盟は、各地で新政府軍と熾烈な戦いを繰り広げました。これらの戦いは総称して東北戦争と呼ばれますが、その中でも有名なのが会津戦争です。

長岡や庄内のように最新の戦術・指揮・武器調達に優れていた藩もありましたが、会津藩は旧式の武器を使用していたため劣勢に立たされます。白虎隊娘子隊など多くの悲劇を生みながらも、若松城(鶴ヶ城)に籠城して戦い続けた会津藩でしたが、奥羽越列藩同盟の盟主であった米沢藩・仙台藩も降伏してしまい、とうとう9月22日に新政府軍に降伏しました。

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箱館戦争で終結を迎える

開陽丸
復元された開陽丸。箱館戦争時は江差で座礁し、沈没しました。

戊辰戦争最後の戦いとなったのが箱館戦争です。品川沖を艦隊で脱した旧幕府海軍副総裁・榎本武揚は、同盟軍や旧幕府軍の残党とともに蝦夷地に上陸、新政府軍勢力である松前藩兵に勝利します。箱館を占拠した榎本は五稜郭を拠点とした蝦夷共和国(榎本政権)を成立させ、北方の防衛と開拓を名目に蝦夷地支配を認めるよう朝廷に嘆願しました。

しかし、新政府はこれを却下して箱館へ兵を送ります。新選組副長・土方歳三を中心とした旧幕府軍は二股口の戦いで勝利を収めますが、その後の箱館総攻撃の最中に土方は命を落としてしまいました。箱館市街が新政府軍の手に落ちると、新政府軍参謀・黒田清隆から降伏勧告を受けた榎本はそれに従って降伏。こうして戊辰戦争は終結し、新しい日本がスタートを切ったのです。

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多くの犠牲のもとに新時代は幕を開けた

約1年半にわたる戊辰戦争によって、250年以上続く徳川幕府は終わり、明治という新たな時代が幕を開けました。しかし、そこに至るまでには、多くの血が流れたということを忘れてはいけません。今年は戊辰戦争が終結して150年という節目の年、勝者の歴史だけではなく、あまり語られてこなかった敗者の歴史にも目を向けてみてはいかがでしょうか。

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