幕末から明治維新にかけて活躍した偉人は多くいますが、みなさんは川路利良(かわじとしよし)という人物をご存じでしょうか?薩摩出身の川路は幕末から明治にかけて異例の出世を遂げ、日本の近代警察を築いたことから、”日本警察の父“呼ばれています。
今回は、そんな川路の生い立ちや功績、西郷隆盛との決別などさまざまなエピソードについてご紹介します。
生い立ちから幕末期の戦功
日本の警察制度を確立し、現在の警視総監にあたる初代大警視となった川路利良。薩摩藩の貧しい藩士の家に生まれた川路は、動乱の幕末に多くの功績を残しました。
薩摩藩の下級武士として生まれる
川路は天保5年(1834)、現在の鹿児島県である薩摩藩の下級武士の家に生まれます。身分制度の厳しい薩摩藩にあって、川路は与力という足軽に近い身分でした。しかし、そんな状況にもめげず、漢学や真影流の剣術を熱心に学びます。やがて、時代は動乱の幕末へと突入。川路は、薩摩藩の実力者だった西郷隆盛に見出だされることになるのです。
禁門の変で活躍する
元治元年(1864)、天皇のいる御所に攻め入った長州藩と、会津藩・薩摩藩を中心とする幕府勢力が激突、「禁門の変」が勃発しました。この戦いで長州藩は猛将・来島又兵衛を中心に暴れ回り、一部の局面で薩摩藩も劣勢に立たされます。このとき、薩摩藩の川路が鉄砲で来島を狙撃して討ち取り、長州軍は劣勢となって敗退しました。
この功績が西郷や大久保利通ら藩の上層部から高く評価され、川路は慶応3年(1867)には小隊長、慶応4年(1868)の戊辰戦争勃発時には大隊長まで出世し、各地を転戦します。その後も優れた軍事的才能で新政府軍の勝利に貢献し続け、彰義隊との戦いや会津戦線でも功績を残したため、戦後には兵器奉行にまで取り立てられるほどでした。
日本の警察制度を確立!
幕末に大活躍して下級藩士から奉行にまで出世した川路ですが、明治維新後は日本の近代化にとって欠かせない功績を挙げます。それが日本の警察制度の確立です。初代大警視(現在の警視総監)に就任した川路の明治維新後の活躍を見ていきましょう。
欧州各国で警察について学ぶ
川路は他の薩摩藩士たちの多くが軍隊に就職したのとは異なり、西郷の勧めで警察制度の立ち上げに関わります。邏卒(らそつ=警察官)総長になった川路は司法省の西欧視察団の一人として、ヨーロッパに警察制度の調査に向かいました。フランスでナポレオン体制下の警察大臣だったジョゼフ・フーシェをいたく尊敬するようになった川路は、フランスの警察制度を参考に日本の警察制度を作りあげようという意欲に燃えます。
初代大警視に就任する
帰国後、川路は警察制度の創設に奔走します。そして明治7年(1874)、警視庁が創設されると、初代大警視に就任しました。このとき川路は40歳で、その最年少就任記録は現在も破られていません。大警視に就任した後も、川路の警察に対する情熱は衰えず、出張時以外は毎日警察本部での自分の仕事が終わった後に、東京各所の警察署を巡回しつづけました。この習慣は彼の死の直前まで続いたそうです。
西郷隆盛との決別
近代化を進める明治政府ですが、維新最大の功臣ともいわれる西郷は、自らの理想と新政府の違いに絶望し、官職を捨てて鹿児島に帰ってしまいました。これが後の西南戦争につながりますが、川路は自らを抜てきした西郷とたもとを分かつ覚悟をします。
警察に献身することを表明!
明治初期、征韓論という議論が盛んで、西郷は板垣退助らとともにその提議者とされていました。しかし、明治政府により征韓論は退けられ、自らの理想と現実の違いに憤慨した西郷は官を捨てて下野します。当時、薩摩を中心に、士族に絶大な人気を誇った西郷の後を追って多くの旧薩摩藩士らが政府を去りました。川路は幕末から明治にかけて実力者であった西郷に抜てきされた立場で、その去就が注目されましたが、大義の前に西郷への尊敬という私情を捨て、自らが情熱を注ぐ近代警察に献身することを表明し、明治政府に残ります。こうして幕末の薩摩藩をともに支えた西郷と川路の道は決別しました。
「西郷暗殺の刺客を送った男」と言われる
西郷が鹿児島に帰った後、鹿児島は日本国内の中で一大独立国の様相を呈していきます。新政府としてはこれを捨て置けず、警察を率いる川路は薩摩士族の内部工作をするため、薩摩出身の警察官を送り込みます。しかし、不平士族らに捕らえられ、川路が送り込んだ中原尚雄らは川路が西郷の殺害を指示したという「自白書」を取られてしまいました。当時、絶大な人気を誇った西郷を暗殺しようとした人物として、川路は西郷を政府から追い落としたと見られている大久保とともに、不平士族たちの憎悪の対象となります。
語り継がれるさまざまなエピソード
日本の警察機構を立ち上げた川路には、多くのエピソードがありました。彼の逸話を2つご紹介します。
肝が座っている男?股間に銃撃
戊辰戦争磐城浅川の戦いで、川路は股間に被弾しました。このとき銃弾は川路の陰嚢上部を貫きます。通常男子の精巣は恐怖しているときは縮み上がり、陰茎の付け根に移動しますが、川路は戦場においても恐怖を感じていなかったため、精巣は垂れ下がったままだったようです。結果、陰のう(金玉袋)を貫いた銃弾は垂れ下がった精巣を打ち抜くことはできず、川路は無事でした。薩摩藩士たちはこれを、川路の勇気の象徴として褒め称えたそうです。
列車で腹痛!?“大便放擲事件”
ヨーロッパ視察の際、川路はユニークな出来事を起こしてしまいます。彼は列車で移動中に、猛烈な腹痛と便意を覚えました。外国語ができなかった川路はトイレの場所が分からず、窮してしまいます。迫り来る便意と走行中の列車、場所の分からないトイレ、追いつめられた川路は最後の決断として、座席での排便を試みます。彼は日本から持参した新聞紙の上に排泄し、それを窓から投げました。それが運悪く人に当たってしまい、警察に持ち込まれ、フランスの新聞に取り上げられてしまいます。後年、日本の警察組織を立ち上げた川路ですが、フランスでは警察に自らの大便を調査されるという笑えないエピソードを残してしまいました。
『警察手眼』として残る川路の言葉
川路はただフランス警察を模倣して日本に近代警察を作ったのではなく、警察組織や警察官のあり方について考えに考え、それを作りあげていきました。その過程で彼が残した語録は警察主眼として整理され、現在でも警察官のバイブルとされています。
警察制度創始者として高い評価を得る
川路は当時も現在も絶大な人気を誇る同じ薩摩藩出身の西郷とともに、維新を駆け抜け数々の功績をあげた人物です。しかし、「西郷暗殺の刺客を送った男」と言われ続け、あまり同郷の民衆から人気を得ることはできませんでした。ですが、彼が警察制度を作りあげた功績は絶大なもので、現在でも警察制度創始者として、警察関係者から高い評価を得ています。
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