畠山重忠(はたけやましげただ)は、鎌倉時代に有力御家人として活躍した人物です。源頼朝の重臣として戦功を上げた彼は、知勇兼備の武将として知られ、清廉潔白な人柄から「坂東武士の鑑」と称えられました。令和4年(2022)放送予定のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、中川大志さんが重忠役を演じます。
今回は、重忠が源氏に臣従するまで、頼朝の功臣としての活躍、畠山重忠の乱と最期、残された伝説などについてご紹介します。
源氏に臣従するまで
畠山重忠はどのように源頼朝に臣従したのでしょうか?源氏の家臣になるまでの経緯を振り返ります。
17歳で一族を率いて挙兵
重忠は平家全盛時代の長寛2年(1164)にうまれました。幼名・氏王丸、通称・畠山庄司次郎。父は桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族である畠山重能、母は相模の豪族・三浦義明の娘といわれています。(江戸重継の娘という説もあり)畠山氏はもともと源氏の家人でしたが、平治の乱で源義朝が敗死して以降は20年にわたり平家に従っていました。治承4年(1180)に以仁王(もちひとおう)の令旨を受けた義朝の三男・頼朝が挙兵した際は平家方として参戦。このとき父が京に上っていたため、17歳の重忠が一族を率い、衣笠城合戦で功績を上げました。
鎌倉幕府の御家人に列する
頼朝は衣笠城合戦の数日前に石橋山の戦いで大敗を喫しましたが、安房で再挙し、その勢力は2万騎以上の大軍に膨れ上がります。このとき重忠は頼朝に帰順し、先陣を命じられて相模国へと進軍し鎌倉に入りました。『源平盛衰記』によれば、重忠は先祖・平武綱が源義家から賜った白旗を持って帰参し頼朝を喜ばせたといいます。こうして源氏に従った重忠は鎌倉幕府の御家人に列し、頼朝の大倉御所への移転や、鶴岡八幡宮の参詣の警護などを務めました。
源頼朝の重臣として活躍
その後、重忠は頼朝の重臣として活躍していきます。重忠はどのような働きをしたのでしょうか?
平家討伐での功績・諸説
寿永2年(1183)京都から平家を追い出した源義仲(木曾義仲)と頼朝が対立し、頼朝は弟である源範頼と源義経に6万騎を与えて進軍させました。翌年、鎌倉軍と義仲軍が宇治川で衝突すると、重忠は義経率いる搦手軍に属して戦います。『平家物語』『源平盛衰記』などによると、重忠は真っ先に宇治川を渡ったものの馬を射られて徒歩となり、同じく馬を流された大串重親が掴まってきたため、怪力で対岸に放り投げたという逸話が残されています。また、義仲の愛妾・巴御前(ともえごぜん)と一騎討ちした際、怪力で彼女の鎧の袖をつかみ、これは敵わないと見た巴御前が鎧の袖を残して逃亡したという話もあります。この宇治川の戦いで鎌倉軍は勝利を収め、義仲を討ち破りました。
鵯越の逆落としでは馬を背負った!?
その後、範頼と義経は摂津国・福原で再起を図っていた平家を一掃すべく西国に向けて進軍します。重忠は一ノ谷の戦いに参戦していますが、史料によって範頼の大手軍か義経の搦手軍に属していたかが異なるようです。『源平盛衰記』には、「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」で馬を背負って坂を駆け下ったという怪力ぶりがうかがえる記述があり、屋島の戦いにも参加しています。このような重忠の活躍もあり、元暦2年(1185)3月、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしました。
梶原景時に謀略を図られるが……
平家滅亡後、頼朝と義経が対立し、義経は京で頼朝追討の兵を挙げるも失敗します。義経はかつて自分を養育した奥州の藤原秀衡のもとに逃亡しますが、のちに自害に追い込まれ死去。義経の妻の父・河越重頼は連座して誅殺され、重頼の武蔵留守所惣検校職は重忠が継承しました。
順調に出世する重忠でしたが、文治3年(1187)、重忠が地頭を担当していた伊勢国沼田御厨で、地頭代が乱暴事を起こしてしまいます。これにより重忠の身柄は千葉胤正に預けられましたが、彼の武勇を惜しんだ頼朝により赦免され、一族とともに武蔵国菅谷館(現在の埼玉県嵐山町)に戻って蟄居しました。しかし、侍所所司・梶原景時が重忠を陥れるため謀反の疑いがあると報告。この事態を知った重忠は嘆き悲しみ自害しようとしますが、弓馬の友・下河辺行平のとりなしで疑いを晴らします。鎌倉へ申し開きに参上した際、頼朝は何も言わず褒美を与えて帰したそうです。
奥州合戦で先陣を務める
文治5年(1189)、頼朝が奥州藤原氏を攻めた奥州合戦で、重忠は先陣を務めて軍を勝利に導きます。秀衡の跡を継いでいた藤原泰衡は、長らく栄華を誇った拠点・平泉を焼いて逃亡し、奥州藤原氏は滅亡しました。この戦功により重忠は陸奥国葛岡郡地頭職に就任。また、建久元年(1190)に頼朝が上洛したときには先陣を務め、右近衛大将拝賀の随兵7人のうちに選出され参院の供奉をしました。こうして頼朝の重臣として活躍した重忠は、頼朝の死去の際、子孫を守護するように遺言を受けたといわれています。
畠山重忠の乱と最期
頼朝の死後、重忠の状況は大きく変化していきました。やがて畠山重忠の乱が起こり、重忠は最期を迎えます。
北条時政の後妻・牧の方の恨みを買い……
元久元年(1204)11月、重忠の息子・畠山重保が平賀朝雅と酒席で喧嘩するという事件が起こります。朝雅は北条時政の後妻・牧の方の娘婿だったため、この件を恨んだ牧の方は「重忠は謀反を企てている」と時政に報告。これを受け時政は畠山一族の討滅を決意し、息子の北条義時・北条時房に重忠を討つよう求めました。二人は重忠の誠実な人柄を信じて反対しますが、牧の方に押し切られてついに同意します。こうして将軍・源実朝から、重忠討伐の命が下されました。
謀反の疑いで討ち死にする
その後、鎌倉にいた重忠の子・重保は謀略で殺害されます。このとき重忠は「鎌倉に異変あり」という虚偽の命を受けて130騎ほどを率いて鎌倉に向かう途中でした。しかし、武蔵国二俣川で数万騎の義時軍と対峙し、これが自分を討伐するためのものだと知ると覚悟を決めて奮戦。多勢に無勢のなか4時間も激闘し、最後は愛甲季隆に射られて討ち死にしました。『吾妻鏡』によれば、合戦後に重忠の首を見た義時は悲嘆にくれ、重忠討伐が作為的なものだとして時政を糾弾したとあります。人望のあった重忠を殺害したことから時政と牧の方は御家人たちから憎まれ、失脚後は伊豆国へと追放されました。
残された伝説
鎌倉幕府に忠実に尽くしたものの、最後は謀略により無念の死を遂げた重忠。彼にまつわる伝説をご紹介します。
重忠の思いを託した「さかさ矢竹」
重忠は戦死する直前、「我が心正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と矢を地面に突き立てました。やがてこの矢は自然に根付き、毎年2本ずつ増えて茂り続けたそうです。この矢は「さかさ矢竹」と呼ばれ、現在ではその由来が書かれた札が立てられています。
「恋ヶ窪」の地名の由来に
重忠は宿場町・国分寺の遊女である夙妻太夫と恋仲になりましたが、平家追討のため西国へと向かいました。このとき夙妻に横恋慕する男が、「重忠は討ち死にした」と嘘をつきます。すると、悲しんだ夙妻は姿見の池に身投げしてしまいました。この伝説は、国分寺市の「恋ヶ窪」という地名の由来になったともいわれています。
人望厚き清廉潔白な武士
源氏に臣従し、源頼朝から厚い信頼を得た重忠。彼は『吾妻鏡』『源平盛衰記』『義経記』などの書物において、良識ある模範的な人間として描かれました。人を陥れることで有名な梶原景時が悪徳な人物とされる反面、重忠は誠実で思いやりのある優れた人格者とされ、高い人気と評価を得たようです。「坂東武士の鑑」といわれた彼の死を嘆く武士も多かったことでしょう。
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