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【大阪の恩人:五代友厚】渋沢栄一と肩を並べた美貌の実業家

「連続テレビ小説 あさが来た」より ©NHK

2024年度の紙幣刷新で実業家の渋沢栄一が注目されていますが、同時期に渋沢と同じように活躍した実業家がいたのをご存じでしょうか?
それこそが、2015年年度のNHK連続テレビ小説『あさが来た』でもキーパーソンとして描かれた五代友厚です。五代は大阪経済界の重鎮の一人で、大阪の発展に尽くしたことから「大阪の恩人」ともいわれています。
今回は、五代のうまれや実業家としての功績、人物像がわかるエピソードなどについてご紹介します。

生まれから薩摩藩での活躍まで

のちに実業家として名を馳せることになる五代ですが、それ以前はどのように過ごしていたのでしょうか。
幼少期から地元薩摩藩での活躍までを振り返ります。

文武両道だった幼少期

五代は通称・才助といい、天保6年(1836)五代秀尭の次男として鹿児島城下で誕生しました。8歳から児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学。薩摩国の質実剛健を尊ぶ気風のなかで育った五代は、幼い頃から文武両道でした。14歳のとき、五代は藩主になる前の島津斉彬から父親を通じて世界地図の描写を命じられます。開明派で知られる斉彬が入手した当時非常に珍しかったもので、五代は2枚複写し、うち1枚を自分の部屋に飾って毎日眺めていたそうです。

薩摩藩遣英使節団として英国へ

薩英戦争の様子を描いた『英艦入港戦争図 一薩英戦争絵巻一」です。

安政2年(1855)五代は藩の郡方書役助(農政を担当する役所の書記官補助)になります。翌年には長崎海軍伝習所の藩伝習生として航海術を学び、幕府艦「千歳丸」で上海へ渡航。藩のために汽船購入契約を結ぶなど活躍しました。
文久3年(1863)薩英戦争が起こるとイギリス海軍の捕虜となり潜伏生活を余儀なくされます。薩摩へ戻った後は薩摩藩遣英使節団として英国に渡航。その後は薩摩藩の会計係に就任し、実業家としての能力を発揮し始めました。

実業家として開花する

「連続テレビ小説 あさが来た」では五代をディーン・フジオカが演じて大きな話題となった。 ©NHK

薩摩で役人として奔走した五代は、新政府でも重要な役職に就き大きな活躍を見せます。
そして本格的に実業家への道を辿っていくのです。

明治新政府で要職を歴任

明治元年(1868)五代は明治新政府の参与職外国事務掛(外務省の前身機関)となります。その他にも外国官権判事、大阪府権判事を兼任して大阪に赴任。堺事件やイギリス公使パークス襲撃事件など外交処理を担当しました。
また、現在の造幣局にあたる造幣寮を大阪に誘致し、初代大阪税関長に就任。大阪税関史の幕を開け、大阪を盛り立てていったのです。

退官後に政商として奔走する

新政府の官僚として尽力した五代は、退官後もさまざまな活動を行いました。英和辞書を刊行したり、硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立したり、紡績業・鉱山業・製塩業・製藍業などの発展にも尽くしています。政商と呼ばれた五代は、大阪の財界人とともに多数の会社や機関を設立し、さまざまな事業に貢献したのです。

五代が設立に関わった主な機関

五代が設立に関わった会社や機関は現在でも大きな役割を果たしています。
ここでは彼が手がけた事業をいくつかご紹介します。

造幣寮

大阪の造幣寮を視察する、明治天皇と警護の近衛兵たち。

当時の日本は各藩が藩札を発行しており、偽造通貨も多数出回っていました。貨幣の質はバラバラで、金と銀の交換比率も国際基準と大きく異なる状況。近代的な経済国家を目指すためには、世界に通用する通貨が必要でした。
大久保利通からこの話を聞いた五代は、英国商人トーマス・グラバーを通じて英国政府と交渉し、使われていない造幣機を格安で購入。それを利用して造られた造幣寮(造幣局)はその後、国家プロジェクトへと発展していきました。

大阪活版所

五代は英和辞典の刊行を思いつき、印刷界の祖・本木昌造に活版業を勧めます。この話を受けた本木は邦文活字の鋳造を成功させ、五代の融資をうけて大阪活版所を設立しました。こうして明治4年(1871)上海で刊行された辞典は五代編『薩摩辞書』と呼ばれるようになります。さらに、五代は同時期に出版された『和訳英辞書』(通称:薩摩辞書)の販売斡旋も引き受けて活版業の成長に寄与したのです。

大阪通商会社・大阪貿易会社

明治政府は各藩の海外貿易を国家主導にしようと各港に通商司を設置し、その監督下に為替会社と通商会社を作りました。会計官権判事を勤めていた五代は、豪商らに大阪為替会社と大阪通商会社の設立を呼びかけます。これは五代の退官後に実を結び、同年に両会社が設立されました。

大阪株式取引所・大阪商法会議所設立

明治43年(1910)当時の大阪株式取引所の様子です。

五代は大阪株式取引所(現在の大阪証券取引所)の設立にも関わりました。明治7年(1874)政府は株式取引所条例を発布し、東京と大阪に取引所を設置することにします。しかし、この条例が当時の経済事情と相容れないものだったため、五代は有志とともに実施延期と改正を要望、明治11年(1878)に改めて株式取引所条例が発布されることになりました。創立事務委員に就いた五代は、創立願書を大蔵卿の大隈重信に提出。無事に許可がおりると、130名にのぼる創立株主のもと大阪株式取引所が設立されます。五代自身も筆頭株主となりましたが、役員にはならず、頭取には渋沢栄一系の中山信彬を推薦しました。

内面もイケメン!残されたエピソード

『あさが来た』では、ディーン・フジオカさんが演じたことで話題となった五代。
残された写真からも美青年だったことがわかりますが、どうやら中身も“イケメン”だったようです。

人脈が広く恩義に厚かった

五代は、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作、坂本龍馬といった人物らと知り合いでした。このような人脈が五代の功績に繋がったのは言うまでもありません。
さらに五代は恩義に厚い部分があり、世話になった薩摩藩家老・小松清廉の死後にはその妻子の面倒を見ました。また交流のあった外交官・森山茂の実妹トヨと再婚しており、それも活躍の場を広げる一因になったようです。

大阪会議を開催し一肌脱ぐ

政府要人の中心だった大久保利通。

明治8年(1875)2月、政府要人による「大阪会議」が行われましたが、五代はこの重大な会議を企画した一人でした。当時、征韓論について政府首脳らの意見が分裂し、征韓派の西郷、江藤新平、板垣退助らが政府を去ってしまいます。大久保を中心に大隈重信、伊藤博文らで政府再編を目指したものの、その直後に台湾出兵をめぐって木戸孝允とも対立。最終的に大久保による専制政治体制となりますが、これに対する民衆の不満や士族の反乱などが相次ぎ、不穏な政情が世に広がっていきます。このような情勢悪化を憂いた五代は、井上馨とともに「大久保・木戸・板垣」による連携の必要性を説き、彼らの仲介役として奔走。その結果、無事に大阪会議が開催されたのです。

熱い正義の心を持っていた

明治新政府の成立後、五代は外国事務掛として諸外国との交渉窓口を担当していました。
この頃の大阪では、条約違反、料金の不払い、雇い人への賃金不払いなど外国商人の不正行為が後を絶たなかったといいます。五代はこのような不正を一切許さず、断固たる態度をとりました。五代は正義や大義を重んじる武士としての性分を持った人物だったといえるでしょう。

近代日本に大きな影響を及ぼした

日本の未来を見据えた五代は、薩摩藩の役人から新政府の要職に付き、最終的には実業家として手腕を発揮しました。重要人物らを支えて多くの事業に携わったことから、明治維新や近代日本に大きく寄与したといえるでしょう。
さまざまな活躍をして大阪を盛り上げた五代は、49歳でこの世を去りました。その葬儀には、一般からも約5000人の参列があったといわれています。現在では、大阪商工会議所前に五代の銅像が建てられています。

 


「連続テレビ小説 あさが来た」
放送日:2020年2月5日(水)放送スタート 月-金 朝8:15~ 2話連続
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/asagakita/


 

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