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【徳川四天王:井伊直政】家康の天下を支えた功臣の生涯とは?

【徳川四天王:井伊直政】家康の天下を支えた功臣の生涯とは?

江戸幕府といえは日本史上でもっとも長く続いた幕府ですが、その開府のうらには多くの武将の活躍がありました。とくに徳川家康を支えた人物として知られるのが、徳川四天王にも数えられる戦国武将・井伊直政です。
彼は、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公・井伊直虎に育てられたことで知られますが、もともと徳川家臣ではありませんでした。一体どのようにして家康の功臣となったのでしょうか?
今回は、直政の生まれから徳川重臣としての活躍、人物像などについてご紹介します。

生まれから徳川家康に仕えるまで

直政の生まれは、どのようなものだったのでしょうか。
家康に仕えるまでの経緯を振り返ります。

今川家家臣・井伊家の嫡男として誕生

直政は、永禄4年(1561)今川氏の家臣・井伊直親の嫡男として誕生しました。幼名は虎松です。
井伊家は代々国人領主で、当時の当主・井伊直盛(直親の従兄)は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死しました。また父・直親は、直政が誕生した翌年に謀反を疑われ、今川氏真に殺されてしまいます。直政は新野親矩の嘆願により助命されましたが、のちに井伊家家老・小野道好(政次)から命を狙われたため、出家して浄土寺や鳳来寺に入りました。

家康に小姓として取り立てられる

その後、母・おひよが徳川家臣・松下清景と再婚し、直政は松下家の養子となります。これにより家康に見出された直政は、天正3年(1575)には井伊氏に復することを許され、井伊万千代に改名。さらには旧領・井伊谷の領有を認められて家康の小姓に取り立てられました。

徳川の重臣として地位を確立する

家康の小姓となった直政は、武田氏との戦いにより戦功を挙げます。そして、家康の重臣として目覚ましい活躍を見せていったのです。

「井伊の赤鬼」と呼ばれるように

彦根駅前には、赤備えの井伊直政公の像が建てられています。

天正10年(1582)22歳で元服した彼は名前を直政と改めます。同年に起こった本能寺の変では家康の伊賀越えに従い、天正壬午の乱では北条家との講和交渉を担当。家康が武田家旧領の信濃国・甲斐国を得ると、武田家の旧臣達を編成した部隊の大将となりました。この部隊は「武田の赤備え」と呼ばれ戦国最強を誇った武田の兵法や軍装を継承しており、小牧・長久手の戦いで初めて赤備えを率いて武功を挙げた直政は、その勇猛果敢さから「井伊の赤鬼」と呼ばれ諸大名から恐れられました。

秀吉から武勇や政治的手腕を評価される

家康のもとで本領を発揮した直政は、豊臣秀吉からも高い評価を受けることになります。
天正14年(1586)家康が秀吉に臣従すると、直政は秀吉から武勇や政治的手腕を評価され、従五位下に叙位されたほか豊臣姓も賜りました。その2年後の聚楽第行幸(じゅらくていぎょうこう)の際には、徳川重臣のなかで直政だけ一つ身分が上の侍従に任官されます。こうして直政は、徳川家で最も格式の高い重臣となったのです。

豊臣方の武将を徳川に引き込んだ

直政はもともと外様の新参者でしたが、小田原征伐や奥州仕置などで次々と戦功を挙げました。その活躍もあってか、家康が江戸に入った際は、徳川家臣団のなかで最も高い12万石を与えられています。
秀吉の死後に起こった政治抗争では豊臣方の武将を家康の味方に引き入れるなど交渉にも手腕を発揮しており、特に黒田如水(官兵衛)・長政父子と盟約を結んで、他の武将を徳川方に組み入れたことは大きな功績だったといえるでしょう。

関ヶ原の戦いとその後の繁栄

岐阜県不破郡関ケ原町にある、松平忠吉・井伊直政陣跡です。

家康のもとで手腕を発揮していった直政は、関ヶ原の戦いや江戸幕府の開府にも大きく貢献しました。

東軍の軍監に任命され指揮をとった

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いが勃発すると、直政は本多忠勝と共に軍監となって指揮をとり、東軍の中心的存在となりました。この戦いで直政は、全国の名だたる諸大名を西軍から東軍に取り込むことに成功しています。
開戦後は島津義弘の甥・島津豊久を討ち、退却する島津軍を追撃。狙撃されて落馬したものの、その猛追ぶりには配下も追いつけなかったといいます。

江戸幕府の基礎固めに尽力

直政は関ヶ原の戦いで大怪我をしましたが、戦後処理や江戸幕府の基礎固めにも尽力しました。西軍の総大将・毛利輝元との交渉役も担当しており、この交渉により所領を与えられた輝元は、直政に感謝するとともに指南役も頼んでいます。また、徳川家と島津家の和平交渉の仲立ちや真田昌幸・幸村(信繁)親子の助命にも尽力しました。

佐和山藩から彦根藩へ

彦根城の天守は現在、国宝となっています。

直政はこれらの功績により、石田三成の旧領・近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられました。京都近くに配置されたのは、西国の抑えや朝廷の守護という意味合いがあったと考えられています。それだけ家康から厚い信頼を得ていたといえるでしょう。
慶長7年(1602)直政はついにこの世から去ります。直政がいた佐和山藩は彦根城の築城にともなって廃止され、新たに彦根藩30万石が置かれました。それ以降、彦根藩は井伊家の藩として明治時代まで栄えました。

直政の人物像とは?

徳川家に尽力しさまざまな功績を残した直政ですが、一体どのような人物だったのでしょうか。
その人物像がうかがえるエピソードを3つご紹介します。

優しい美男子として知られる

直政は複数の史料から美男子だったといわれています。家康は直政を寵愛しており、自邸近くに直政の住まいを作り通っていたそうです。また、人質として徳川方にやってきた秀吉の母やその侍女達も、直政の優しく丁寧なもてなしに惚れ込んだといいます。直政には男女ともに虜にする魅力があったといえるでしょう。

「人斬り兵部」と呼ばれ家臣に恐れられた

直政は多くの領国を与えられるほど厚く家康に奉公していましたが、それを自分の家臣にも強要していました。わずかな失敗でも手討ちにしたため当時の官位に由来して「人斬り兵部」と呼ばれ、耐えかねて忠勝のもとに去る家臣も多かったようです。直政は厳格で気性が激しかったといわれますが、それ故に家康も厚く信頼していたといえそうです。

妻に頭が上がらない恐妻家だった!?

直政の跡を継いだ井伊直孝の肖像です。(清涼寺所蔵)

そんな厳しい性格の直政ですが、正室・唐梅院(とうばいいん)には頭が上らなかったようです。
彼女は、侍女が夫の子供をはらんだと知ると父親のもとに帰してしまいました。直政は正室に遠慮してしばらくこの子供に会いませんでしたが、12歳になりようやく召し寄せます。この子こそ、大坂冬の陣で井伊家大将として活躍し、やがて井伊宗家の家督を継ぐことになる直孝でした。

天下無双と評された猛将

その気になれば天下統一も可能だと諸将から評価されていたといわれる直政。しかし彼は、そのような野心を見せることなく、家康が天下人になるよう貢献しました。その働きは、『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』にも「家康が幕府を開くにあたっての一番の功労者」と記載されるほどです。彼は関ヶ原の戦いで負った傷が原因で42歳で亡くなりましたが、井伊家はその後も繁栄し、江戸264年間を通じて井伊直弼など4名の大老を輩出しました。

 

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