【近代日本のスポーツ】円谷幸吉:東京オリンピックのヒーローはなぜ悲劇に巻き込まれたのか

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【近代日本のスポーツ】円谷幸吉:東京オリンピックのヒーローはなぜ悲劇に巻き込まれたのか

あと半年で開催される東京オリンピック・パラリンピック。開催地が北海道になるなどの混乱がありましたが、やはりマラソンは人気種目で、3枠のうち1枠残っている出場者の決定が気になるところです。

過去にさまざまな名選手を残したオリンピックのマラソンですが、その中でも多くの人の記憶に刻まれているのが円谷幸吉(つぶらや・こうきち)です。その栄光の軌跡と、悲劇の人生をご紹介します。

それほど目立つ選手ではなかった学生時代

円谷幸吉は1940(昭和15)年、福島県須賀川町(現在の須賀川市)で農家の7番目の子として生まれました。父親は厳しく、幸吉はまじめな性格の子どもだったそうです。

須賀川市立第一中学校から福島県立須賀川高等学校に入ると、兄の影響を受けて長距離を始めました。しかし、持久力は持ち合わせていましたがスピードのある選手ではなく、目立たない存在でした。ただ、持ち前の几帳面な性格から練習をしっかりと積み重ね、県大会と東北大会を通過してインターハイに出場しています。しかし、インターハイでは5000メートルで予選落ちに終わってしまいました。さほど目立つ選手ではなかったのです。

高校を卒業した1959(昭和34)年、幸吉は陸上自衛隊へ入隊し、郡山駐屯地に配属となりました。ここで幸吉は同僚と郡山自衛隊陸上部を立ち上げて競技を続行しました。こうした努力の結果、陸上競技の実績が認められるようになり、自衛隊の管区対抗駅伝や、青森東京駅伝などへの出場がかないました。しかし、練習のし過ぎがたったって腰椎のカリエスを発症、やがてその病気に悩まされるようになります。

めきめきと頭角を現しマラソン代表に選出!

1962(昭和37年)、東京オリンピックに備えて前年発足した自衛隊体育学校がオリンピック候補育成のため、特別課程の隊員を募集します。しかし幸吉は腰痛のため選考会に出ることができませんでした。しかし、幸吉の実力をよく知る駅伝チームのコーチ・畠野洋夫の推薦推薦を受けて入校が決まりました。

体育学校では、これまでにない専門的なトレーニングを受けることができました。もっとも、
当初は腰痛が治らず、満足に走ることができないという状態でした。しかし、幸吉と強い信頼関係で結ばれた畠野が根気よく指導、あわせて治療も続けたことでレースに復帰することができました。この年10月の日本選手権では5000メートルで日本歴代2位の記録を出し、日本陸連からオリンピック強化指定選手に選ばれました。

ここからの幸吉の躍進は目覚ましいものがありました。ニュージーランドに遠征するなどのあらたな経験をして、1963(昭和38)年8月には2万メートルで優勝は逃しましたが世界記録を更新。10月の競技会では好記録を連発して1万メートルのオリンピック代表選手に選ばれました。この時、幸吉はマラソン未経験でした。それでも日本陸上競技連盟の強化本部長だった織田幹雄は円谷のスピードに着目、マラソンを走ることを勧めます。

そこで、東京オリンピック開催年の1964年(昭和39)年3月の中日マラソンで初マラソンに挑戦。2時間23分31秒で5位に入賞しました。さらに3週間後の4月12日には、オリンピックの最終選考会で、東京オリンピック本番と同じコースで実施された毎日マラソン(現在のびわ湖毎日マラソン)に出場、2時間18分20.2秒で君原健二に次ぐ2位となり、マラソンでもオリンピック代表の座を射止めたのです。オリンピック本番までのマラソン経験3回は、戦後の男子マラソン代表では森下広一(2回)に次ぐ少ない記録であり、初マラソンからオリンピック本番までの期間が7か月1日というのは、未だに最短記録として残っています。

体育学校の同僚として練習パートナーを務めた宮路道雄は、円谷の成長ぶりを実感していたそうです。ペースメーカーを追い越し、自分が引っ張るような幸吉の熱い走りが、決して天才とはいえない彼をオリンピックへと導いたのではないでしょうか。

戦後日本悲願のメダルをもたらす

マラソンでは甲州街道を走り、現在の味の素スタジアムが折り返し地点だった

そして東京五輪本番、幸吉は陸上競技初日に行われた男子1万メートルに出場、6位に入賞します。メダルには届きませんでしたが、陸上トラック競技における日本男子戦後初の入賞でした。それでも最終日に行われる男子マラソンは、君原と持ちタイムがいちばん速い寺沢徹人がメダル候補と目されており、幸吉は注目されていませんでした。

しかし、いざレースが始まると、君原と寺沢がメダルと入賞の争いから脱落するなかで幸吉だけが上位でレースを続ける展開に。そして、幸吉はゴールである国立競技場に2位で姿を見せました。銀メダルかと思いましたが、トラックでイギリスのベイジル・ヒートリーに抜かれてしまい、3位になりました。幸吉には「男は後ろを振り向いてはいけない」との父親の戒めがあり、トラック上での駆け引きができなかったとも考えられています。それでも、自己ベストの2時間16分22.8秒で3位、銅メダルという立派な成績を残しました。東京五輪で日本が陸上競技において獲得した唯一のメダルでもあり、国立競技場で日の丸が掲揚されたのはこの幸吉の銀メダル獲得時のみでした。

東京オリンピック後の悲運、そして悲劇

金・銀・銅メダル

一躍日本陸上界のヒーローとなった幸吉は、「メキシコシティオリンピックでの金メダル獲得」を次の目標としました。そして、それは日本中の人々の願いでもありました。しかし、幸吉を練習に没頭させることを許さない環境の変化が続々と襲いかかってきたのです。

まず、所属先である自衛隊体育学校の校長が変わり、選手育成のために許されてきた特別待遇の見直しが決まりました。新しい校長の吉池は幸吉の婚約をオリンピック優先のために認めず、結果的にこの縁談は破談となってしまいます。こうした吉池の動きに異議を唱えた恩師の畠野も事実上の左遷となり、幸吉は追い込まれました。また、幸吉は自衛隊の幹部候補生学校に入校したため、トレーニングの時間の捻出にすら苦労せねばなりませんでした。それでも「メキシコで金メダル」という周囲の期待に応えなければならないと、練習をこれでもかと重ねました。その結果、腰痛を再発。しかも病状は悪化して椎間板ヘルニアを発症してしまいます。1967(昭和42)年には手術を受け、病状は回復したものの、全盛期のような走りができる状態ではありませんでした。ライバルの君原がこのころ結婚し、以前のような走りを取り戻す中で、幸吉はあまりにつらい日々を強いられていたのです。

1968年(昭和43)年、メキシコオリンピックが開催される年がスタートしました。しかし、まだお正月気分の残る1月9日、幸吉は最悪の結末を選びました。自衛隊体育学校宿舎の自室で、幸吉は自らの頚動脈をカミソリで切りつけたのです。27歳という若さでした。戒名は「最勝院功誉是真幸吉居士」、ただただ真摯に走り続けた幸吉の人生をあらわすようなものだといえるでしょう。

幸吉は2通の遺書を書き置いていました。1通は自衛隊の上官にむけたものです。

校長先生、済みません
高長課長、何もなし得ませんでした
宮下教官、御厄介お掛け通しで済みません
企画課長、お約束守れず相済みません
メキシコオリンピックの御成功を祈り上げます

そしてもう1通、家族にあてた遺書がありました。

父上様 母上様 三日とろろ美味しゅうございました
干し柿、もちも美味しゅうございました
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました
勝美兄姉上様、ぶどう酒、リンゴ美味しゅうございました
巌兄姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しゅうございました
喜久造兄姉上様、ぶどう液、養命酒美味しゅうございました
又いつも洗濯ありがとうございました
幸造兄姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました
モンゴいか美味しゅうございました
正男兄姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん
ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん
ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん
幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君
立派な人になって下さい
父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません
何卒お許し下さい
気が安まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました

家族への、主に食事にまつわることに感謝する文面はあまりに有名なものですから、読んだことがある方も多いでしょう。幸吉を語る際には欠かせないものとなり、余計に幸吉の悲劇の側面を強調するものです。「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」「父母上様の側で暮らしとうございました」……。こうした思いに誰かが気づいて救うことができていたなら、いつかまた陸上選手として復活し、競技に取り組めたかもしれません。しかし、高度成長下において「国のため」「国を代表して」という意識が強かった当時のスポーツ界では、それは許されることではありませんでした。戦争が終わってなお、「国のため」に生きることを強要されていたといえるかもしれません。

周囲の人たちが皆、「まじめ」「責任感が強い」「礼儀正しい」と話すほど好青年だった幸吉。自殺の理由は遺書以外には明らかになっていませんが、かつての婚約者の結婚を耳にしたことが直接の契機となったという説もあります。

幸吉の思いを継いで走る

須賀川アリーナ

かつて、幸吉の実家には家族の手で開設された「円谷幸吉記念館」がありましたが、2006(平成18)年、展示品を市に寄贈したのち秋に閉館しました。遺族の高齢化が理由です。その後、市営須賀川アリーナに展示コーナーが設置され、2007(平成19)年から「円谷幸吉メモリアルホール」として正式に公開されています。

須賀川市では、幸吉の偉業を称えるとともに、市民の体力づくり、健康な都市づくりに資することを目的とした「円谷幸吉メモリアルマラソン」を開催しています。2019(令和元)年に第37回を迎えたこの大会には、多くの市民ランナーが参加し、幸吉の軌跡の上を走りました。その中には、特別招待選手であり、幸吉の没後のメキシコオリンピックで銀メダルを獲得した君原健二の姿もありました。

近年、スポーツ選手はフィジカルだけではなくメンタルもケアする体制が整っています。しかし、期待される選手に国民が過度なプレッシャーをかけてしまう状況は今でも発生しがちです。来るべき東京オリンピック・パラリンピックが、選手が楽しんで走り、観客はどんな成績でも笑顔で迎えてあげられるような大会になるとよいのではないでしょうか。円谷幸吉の悲劇を繰り返さないために、わたしたち観客も楽しむことに身をゆだねることが大切です。

一方で「悲劇のヒーロー」とみられがちな円谷幸吉は、戦後の陸上において男子初のオリンピックメダルを、東京オリンピック唯一の国旗掲揚をもたらしてくれた人で、ここから日本男子マラソンの歴史も大きく動き始めました。円谷幸吉は27年という短い生涯で、たくさんのものを残し、いまなお記憶に残るランナーとして、とどまり続けています。

半年後の号砲ののち、どんな選手がどんな走りを見せてくれるのでしょうか。円谷幸吉の足跡を思いながら、楽しみに待ちたいものです。

※参考サイト:円谷幸吉メモリアルマラソン大会公式サイト

 

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