一ノ谷の戦いは、源氏と平家の争いである治承・寿永の乱(源平合戦)の中でも花形と言えるほど激しく、エピソードも豊富です。今回は、そんな一ノ谷の戦いが起こった背景や戦の経過と結果、合戦がもたらした影響、その他逸話についてご紹介します。
一ノ谷の戦いの背景
まずは、一ノ谷の戦いが始まる背景にあった、天皇家・源氏・平家それぞれの思惑について解説します。
ライバル同士の源氏と平家
保元元年(1156)の保元の乱、平治元年(1160)の平治の乱を経て、平清盛を中心に「平家にあらずんば人にあらず」と言われるほどの栄華を誇った平家に対し、源氏は関東を中心とした各地の有力者に協力を仰ぎ、打倒平家の機運が高まっていました。平家と対立していた以仁王(もちひとおう)が治承4年(1180)に平家追討の令旨を発すると、全国の源氏がこれを受け挙兵。その後、石橋山の戦いで源頼朝が敗走するも、大軍を得て形成逆転し、富士川の戦いで勝利。まもなく清盛は病没します。
この戦いの中で木曾義仲と頼朝の対立が激化しますが、頼朝が義仲を討ち取る形で決着しました。その間に平家は態勢を立て直してしまいます。このような流れを経て迎えた一ノ谷の戦いは、源氏が一気に畳み掛けて平家から政権を奪おうとする戦だったと言えるでしょう。
正式に即位したい後鳥羽天皇
寿永2年(1183)に平家が都落ちした際、平家は幼い安徳天皇と三種の神器を持って逃げました。その後、朝廷では後白河法皇の意向を無視して強引に平家が擁立した安徳天皇を疑問視する声も多く、平家が都落ちしたのをきっかけに新しく後鳥羽天皇を即位させてしまいます。
しかし、三種の神器がなかったため正式に即位の儀が行えず、このままでは朝廷内で後鳥羽天皇の地位が危うくなる恐れもありました。そこで、義仲を滅ぼして平家の残党を追おうとしている頼朝に対し、後鳥羽天皇の祖父である後白河法皇が平家追討とともに三種の神器奪還の命を下したのです。
合戦の経過
天皇・源氏・平家それぞれの思惑が色濃く出てきた時期に起こった一の谷の戦いは、どのように進んでいったのでしょうか。
初戦「三草山の戦い」
源義経と源範頼は平安京から平家追討に向かいました。主力だった範頼軍に対し、少ない兵力で背後から攻めいった義経。寿永3年(1184)2月5日、夜襲を仕掛けた義経に、平家軍はろくな抵抗もできずあっさり敗北してしまいます(三草山の戦い)。その後、部隊は3つに分かれ、東・西・北から平家の本拠地である摂津福原を挟み撃ちするように進軍していきました。
三草山の戦いや後述する「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」で義経の奇襲がこれほど効率的に働いたのは、平家が貴族化し、武家としてはかなり弱体化していたことが指摘されています。平家の中では「奇襲や夜襲なんて卑怯だから、後白河法皇の命を受けた源氏がまさかやらないだろう」という考え方が多かったため、油断につながったと推測されています。
源義経の奇襲が戦局を変えた「鵯越の逆落とし」
主力だった範頼軍が攻めあぐねる中、寿永3年(1184)2月7日に義経が活路を開きます。一ノ谷の裏山は断崖絶壁になっていましたが、義経は地元民に「ここを下りられるか」と聞きます。鹿は下りられるが馬は無理ではないか、と話す地元民に義経は「鹿が下りられて、同じ四つ足の馬が下りられないわけがない」と言い、わずか数十騎の少数精鋭を率いて特攻。まさか断崖絶壁から来ると思っていなかった平家に対し、大打撃を与えたのです。これが有名な「鵯越の逆落とし」です。
父の愛が馬を走らす「梶原の二度駆け」
後に義経とたびたび対立したことで知られる梶原景時は、嫡男の景季、次男の景高とともに一ノ谷の東へ向かい、平知盛と交戦しました。
まずは景高が単騎で敵陣へ突入、援護で景時・景季も攻め込み、景時は景高とともに後退します。すると、今度は景季が敵陣の深くまで入り込んでしまいました。これを連れ戻すため、景時は再び敵陣へ飛び込んで奮戦し、景季も無事に勝利をおさめたのです。この時景時の動きが後に「梶原の二度駆け」と呼ばれるようになりました。
合戦の結果と影響
義経による「鵯越の逆落とし」のあと、戦局は大きく源氏側に傾きます。主力の範頼軍も平家に総攻撃を仕掛け、北から攻めていた安田義定も合流し挟み撃ちが完成します。平家軍は散々に敗れて逃走用の船に乗り込むものの、我先に乗り込もうとお互いに蹴落としたり、船が沈没したりと悲惨な様子だったそうです。
結局、平家は一ノ谷の戦いによる敗北で壊滅的な被害を受けました。兵士を大量に失ったのはもちろん、幹部クラスも多く討ち取られており、平家滅亡を決定づけた戦いともいえるでしょう。
一ノ谷の戦いにまつわる逸話あれこれ
最後に、一ノ谷の戦いにまつわる逸話を解説します。
暗躍する後白河法皇
源氏と平家の命運を分けた一ノ谷の戦いですが、実は裏で暗躍していたのが後白河法皇です。寿永3年(1184)2月6日、三草山の戦いの傷が癒えない中で清盛の三回忌を行っていた平家のもとへ、後白河法皇の使者が「平家と和平交渉をしたい」という文を届けます。
平家はこれを信じきっていたのですが、実は後白河法皇の真っ赤なウソ。義経の奇襲「鵯越の逆落とし」が大成功をおさめた裏には、後白河法皇の策略があったとも言えます。
平敦盛の最期
平家物語のなかでも、取り上げられることが多いエピソードのひとつとして、平敦盛の最期があげられます。源氏の追討兵である熊谷直実は当時17歳だった敦盛が他の兵とともに船に乗って逃げようとしていたところに追いつき、首をはねようとします。しかし、直実は敦盛の顔を見ると、美しかったことや自分の息子と同じくらいの年齢だったことで、首をはねる手が鈍ってしまいます。最終的には、源氏の援軍が来るのを聞いて「他の者に任せるくらいならせめて自分の手で」と泣く泣く敦盛の首をはねました。首をはねるに至るまでの葛藤も、はねた後に「武士の家に生まれてしまったばかりに、こんな辛い目を味わわなくてはならないのだ」と後悔する様も、涙無くしては語れない平家物語の名場面です。
なお、直実はこうした武士の過酷な運命に耐えきれず、後に出家したといわれています。
「鵯越の逆落とし」はウソだった!?
一ノ谷の戦いの戦局を決定づけたとされる「鵯越の逆落とし」ですが、以下のような理由から平家物語の創作ではないかとする声もあります。
・「鵯越」と呼ばれる場所に断崖絶壁は見当たらない
・鵯越から一ノ谷までは8kmもあり、奇襲と呼ぶにはやや難がある
これに対し、一ノ谷の裏側には傾斜が急な鉄拐山(てっかいさん)という山があることから、「鵯越の逆落とし」そのものがウソだったのではなく、場所を鵯越としたのが平家物語の創作であり、実際の場所は鉄拐山だったのではないかとする説もあります。
平家滅亡を決定づけた、源平合戦の花形
一ノ谷の戦いは、平家滅亡を決定づけた源平合戦の花形とも言える戦いです。義経による「鵯越の逆落とし」をはじめ、各源氏勢が華々しい活躍を見せる一方で、後白河法皇が暗躍するなどエピソードに事欠きません。ぜひ歴史の流れとともにチェックしてみてはいかがでしょうか。