諏訪頼重は、中先代の乱と呼ばれる反乱の立役者とされる人物です。もともとは諏訪大社の現人神(あらひとがみ)であり、鎌倉幕府滅亡後は建武の新政に反発して、幼年の北条時行を助けながら乱の中心人物の一人として関わりました。また、2021年に連載をスタートした漫画「逃げ上手の若君」(集英社)に登場したことでも、大きな注目を集めています。今回は、そんな頼重の生い立ちや中先代の乱のてん末、最期についてご紹介します。
鎌倉幕府滅亡まで
頼重は、幼年期から特殊な役職に就いていました。
諏訪大社の大祝(おおほうり)だった幼少期
頼重は、得宗北条家の御内人(みうちびと)であり、諏訪大社の大祝(おおほうり)、諏訪大明神が宿る現人神とされています。つまり、武将であるとともに神官であり、なおかつ神とも同一視される非常に珍しい存在と言えるでしょう。
「大祝」とは諏訪社の最高位であり、諏訪明神(建御名方神、たけみなかた)の依り代(神霊が宿る対象)です。このため、現人神として崇められました。頼重の時代、大祝は諏訪の地において、祭政一致の支配者として君臨する存在でした。代々8歳で大祝に即位し、15歳で下りて武士になります。大祝は諏訪を出てはならなかったため、頼重もこれにならい、15歳を過ぎて武士となってから鎌倉で活躍しました。
鎌倉幕府を支えた北条氏の没落
鎌倉幕府は源頼朝を初代としてスタートしたものの、頼朝の血が続いたのは三代目の源実朝まで。実権を握っていたのは北条氏でした。しかも、北条氏は将軍の実権を強固なものにしないように、幼少の将軍を京から鎌倉に迎えては、成人すると解任して送り返すということを繰り返していました。
しかし、第9代執権・北条貞時や第14代執権・北条高時のころには、貨幣経済が普及したことから大きな動揺や変革によって社会は混乱。貨幣経済に対応しきれなかった御家人が没落したり、逆に所領を貨幣の力で買収して力をつけた非御家人が現れたりしました。没落した御家人や力をつけた非御家人は、各地で体制に反発する「悪党」となっていったのです。
鎌倉幕府の滅亡
元弘元年(1331)、後醍醐天皇は倒幕を企てるものの密告ですぐに発覚、天皇は島流しになりました。しかし、これを機に幕府・得宗に不満を持つ楠木正成、赤松則村(円心)ら各地の悪党が反幕府の兵を挙げるようになります。
元弘3年(1333)には、反政府勢力討伐を任された足利尊氏の裏切りによって六波羅探題が陥落し、新田義貞が挙兵。鎌倉幕府側も地形を利用して激しく抵抗したものの、同年5月21日には義貞率いる軍勢が鎌倉市内に突入しました。22日までには幕府軍の有力武将が相次いで戦死・自害し、敗北した第14代執権・高時ら一族や家臣も寺に集合したのち、火を放って自害。鎌倉幕府が滅亡したこの一連の内乱は「元弘の乱」と呼ばれています。
中先代の乱まで
鎌倉幕府が滅亡を迎えた後、頼重はどのように動いていったのでしょうか。
小笠原貞宗との対立
鎌倉幕府滅亡後、建武の新政により、鎌倉には後醍醐天皇の皇子の成良親王を長とし、尊氏の弟の足利直義が執権としてこれを補佐する形の鎌倉将軍府が設置されました。しかし、建武政権は武家の支持を得られず、北条一族の残党などは各地で蜂起を繰り返していました。このとき、鎌倉時代に代々信濃守護の北条氏の御内人を務めていた諏訪氏に対し、建武政権で新たに小笠原貞宗が信濃守護に任ぜられたため、対立関係が生じます。
貞宗は、元弘の乱では義貞に従い、尊氏らとともに後醍醐天皇の討幕運動の鎮圧に加わり、北条貞直に属して正成の赤坂城を攻めた人物です。高時が京へ派遣した上洛軍の中に名前はあるものの、尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻すとこれに従い、その功績で信濃国の守護に任ぜられました。
時行を奉じて起こした中先代の乱
小笠原氏の支配に対する不満から、頼重と息子・諏訪時継は高時の遺児である時行を奉じて中先代の乱を起こします。時行の信濃挙兵に応じて、北陸では北条一族の名越時兼が挙兵。時行勢の保科弥三郎(保科氏)や四宮左衛門太郎らは青沼合戦で貞宗を襲撃し、この間に諏訪氏・滋野氏などは信濃国衙を焼き討ち。建武政権が任命した公家の国司(清原真人某)を自害させるに至ります。
ちなみに、京では当初、反乱軍が時行を擁しているとの情報をつかんでいなかったといわれており、反乱軍は木曽路から尾張国に抜け、最終的には政権のある京へ向かうと予想していました。このため、鎌倉将軍府への連絡が遅れ、それが後の鎌倉陥落につながったのではないかと考えられています。
鎌倉占領~自刃まで
時行を擁した頼重らは、鎌倉に向かって進軍します。
鎌倉を占領するも、長続きせず
勢いに乗った時行軍は、武蔵国へ入り鎌倉に向けて進軍します。建武2年(1335)7月20日頃に女影原(埼玉県日高市)・小手指ヶ原(同県所沢市)・武蔵府中で次々に敵軍を打ち破り、自害または討死させました。さらには、井手の沢(東京都町田市)で、鎌倉から出陣し迎撃してきた足利直義をも破ります。直義は尊氏の子・足利義詮や、後醍醐天皇の皇子・成良親王らを連れて鎌倉を逃れました。
同24日には鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)で鎌倉将軍府側は最後の抵抗を試みますが、佐竹義直らが戦死。翌25日に時行は鎌倉に入り、さらに逃げる直義を駿河国手越河原で撃破しました。直義は8月2日に三河国矢作に拠点を構え、乱の報告を京都に伝えると同時に成良親王を返還しています。
時行勢の侵攻を知らされた京では、尊氏が後醍醐天皇に対して時行討伐の許可と同時に、武家政権の設立に必要となる総追捕使と征夷大将軍の役職を要請したものの、後醍醐天皇は要請を拒否。尊氏は勅状を得ないまま出陣し、後醍醐天皇は尊氏に追って征東将軍の号を与えました。
自害するも、時行を逃した頼重の機転
その後、時行勢は徐々に劣勢となり後退。8月19日、頼重は子の時継ら43人と勝長寿院で自害しました。43人の死体はすべて顔がはぎ取られ、敵軍が踏み入ったときには誰が誰だかわからなかったとされています。
これは、時行もここで自害したと思わせ、時行を安全に逃した頼重の機転でした。時行は無事に逃げのび、世は南北朝時代へと移ります。その後も鎌倉幕府の再興を目指す時行は、再び戦乱の中に身を投じていきました。頼重・時継親子の死後、諏訪家の家督(大祝職)は、孫の頼継(時継の子)が継承しています。
最期に時行を無事に逃した忠誠心
頼重は、幼少期には神を宿す「現人神」であったものの、その後は武士となり鎌倉で活躍した非常に珍しい立ち位置の人物でした。諏訪氏は北条氏の御内人であったことから、建武の新政で貞宗と対立し、時行を擁して中先代の乱を引き起こします。しかし、時行を利用して終わりではなく、最期には自害する際に時行を逃すなど、忠誠心の高さもうかがわせる人物でした。
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