源義経の腹心の部下だったとされる武蔵坊弁慶は、歌舞伎などの題材にもなるほどエピソードにはこと欠きません。今回は、武蔵坊弁慶について知りたい人に向け、生い立ちから義経との出会い、有名なエピソードや弁慶をモチーフにした言葉などをご紹介します。
武蔵坊弁慶の生い立ち
弁慶の生い立ちをご紹介します。
生まれた時からビッグだった!?
弁慶は、母親のお腹の中に18ヶ月もいて、生まれたときには2〜3歳児の体つき、髪は肩まで伸び、歯は前から奥までしっかり生えそろっていたとされますが、これは後世の創作だと考えられています。なお、「弁慶物語」では母のお腹にいた期間は3年間とされています。出身地は田辺(現・和歌山県田辺市)とされており、市内には産湯をとった井戸や弁慶が腰掛けた石など、さまざまな史跡があります。
上記のように一般的な赤ん坊とは異なる風貌であったことから、父親とされる熊野別当に鬼子と忌み嫌われて殺されかけますが、叔母に引き取られて「鬼若」と命名されました。母は二位大納言の姫で、父である熊野別当に強奪されて弁慶を身ごもったとされています。叔母に引き取られた弁慶はその後、幼少期を三条京極で過ごしたと伝えられており、三条通に残る「弁慶石」は、幼少期の弁慶を偲ぶ史跡となって現在も残っています。
これらのエピソードは「義経記」や「弁慶物語」などの軍記に記されたエピソードであり、どこまでが事実でどこまでが伝説なのかわからないところがあります。同時代における最も信ぴょう性の高い歴史書「吾妻鏡」には義経の部下のひとりとして記されているだけであり、「武蔵坊弁慶(弁慶法師)」という人物が実在したことは確かですが、出自はおろか何をした人物なのかも全く記されていません。そのため、各種伝説における「武蔵坊弁慶」が、実在した「武蔵坊弁慶」と同一人物なのかどうかは不明です。
義経とのエピソード
このように、弁慶に関してはどこまでが事実でどこまでが伝説なのかわからないところがあり、義経に関連するエピソードも後世の創作である可能性が高いと言われています。ですが、これらのエピソードが歌舞伎や能などで人気を博し、一般にも広く知られるようになりました。ここからは、そんな弁慶のエピソードに関して特に有名なものをご紹介します。
五条大橋での決闘
弁慶は比叡山延暦寺に預けられますが、乱暴狼藉を働きすぎた挙句に学問もできず、ついには追い出されてしまいます。その後自ら剃髪して「武蔵坊弁慶」と称し、四国に渡るもそこでもまた乱暴三昧。さらに逃れて播磨国(現・兵庫県)に辿り着きますが、書写山円教寺では堂塔を火災に巻き込んでしまいます。
京都に流れついた弁慶は、自らの巨体と怪力がどこまで通用するかを確かめるために、五条大橋の上で通りすがりの武者と決闘して1000本の太刀を奪おうと試みます。その結果、999本まで集まりますが、最後の1本を奪おうとしているときに現れたのが、笛を吹きながら通り過ぎようとする牛若丸(義経の幼名)でした。
弁慶はいかにも弱そうな牛若丸が立派な太刀を腰に携えて現れたため、格好の獲物と襲い掛かります。しかし、牛若丸は巨漢の弁慶の大振りな攻撃を身の軽さでひらりひらりとかわし、欄干の上などをうまく利用しながら勝利。見事弁慶を打ち負かし、弁慶は自分を負かした義経に感服して家来となります。
源平合戦では武功を立てるも……
牛若丸の忠実な部下となった弁慶は、その後牛若丸が元服して義経となり、治承4年(1180)に義経の兄・源頼朝が打倒平家に向け挙兵したのに応じて合流すると、義経の右腕として活躍します。しかし、皮肉にも義経と部下たちの活躍ぶりは、頼朝にとって自らの地位を脅かす危険分子と見なされてしまいました。
頼朝との対立は、義経が功績を認められて朝廷から官位を受けたことで決定的となります。義経は謀叛の意がないことを手紙で送るも聞き入れられず、義経は妻子を伴って奥州へ逃げます。
奥州に落ち延びる義経と弁慶
頼朝から現代でいう「全国指名手配」を受け、奥州へ落ち延びる義経と弁慶は、途中で関所に引っかかり、検査を受けることになります。義経一行は山伏(旅の僧侶)のふりをしていましたが、関所を守っていた人物に怪しまれてしまいました。弁慶はとっさに機転を利かせ、仏教の布教に使う巻物「勧進帳」をすらすらと読み、本物の僧侶であることを主張します。
しかし、このとき開かれた巻物は全くの白紙。関所側はすっかりだまされ一行を通そうとしますが、一行の中に義経に似た人物を見つけたことで、再び疑いが深まります。弁慶は疑いを晴らすために、なんと義経を棒で何度も殴りつける行為に出ました。
自分の主人を棒で殴るなど、当時の武士からすればあり得ないこと。これには関所の人物たちも納得せざるを得ず、関所を通したと言います。このエピソードは「勧進帳」の名前で歌舞伎の演目になるなど人気を博しています。
弁慶の立ち往生
義経一行はかつて庇護してくれていた奥州藤原氏の藤原秀衡に保護されますが、秀衡は間もなく病死してしまいます。息子の藤原泰衡は頼朝から「義経を殺さないなら、奥州藤原氏を攻め滅ぼす」と脅され、仕方なく義経や弁慶たちが住んでいた衣川の館を襲撃します(衣川の戦い)。
弁慶は義経を守り、圧倒的な泰衡の軍団を相手に自慢の薙刀で応戦しますが、多勢に無勢では敵いません。最後は雨のように降り注ぐ敵の矢を全身に受けながらも倒れることなく、立ったまま絶命したとされています。このエピソードから、「弁慶の立ち往生」(往生=死ぬこと)という言葉が生まれました。
武蔵坊弁慶の豪傑ぶりから生まれた言葉
弁慶の豪傑ぶりから生まれた言葉もたくさんあり、ここでは「弁慶の泣きどころ」と「内弁慶」の2つをご紹介します。
弁慶の泣きどころ
部位としては向こうずねのことを指し、「弁慶ほどの豪傑でも、痛がって泣き叫ぶほど痛い」という意味で、このような名前がつきました。転じて、人の最も弱いところ、弱点、急所の意味でも使われています。
内弁慶
「内弁慶、外地蔵(外ねずみ)」などのセットでも用いられ、家の中や気心の知れた人の前では威張り散らす反面、初対面の相手やよく知らない相手の前では大人しく気弱な人間のことを指します。また、ここから転じて特定の場面でだけ威勢を張る様子を「〜弁慶」などと言うこともあります。
忠義心と機転に秀で、義経を最期まで守った武士
武蔵坊弁慶は実在したかどうかが疑問視される有名人物のひとりで、数々のエピソードは創作や数人のエピソードが合わさっているものも多いと考えられています。義経を最期まで守った「弁慶の立ち往生」など、その忠義心と機転、強さや豪胆さは当時の武士の理想の姿だったのかもしれません。