【空海の弟子】弘法大師に付き従った10人の付法弟子たち

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【空海の弟子】弘法大師に付き従った10人の付法弟子たち

平安時代初期の僧・空海は、真言宗の開祖として広く知られています。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(しごう)でも有名ですよね。空海は天台宗の開祖・最澄(伝教大師)と共に、中国から真言密教をもたらしました。詩文にも秀でており、「三教指帰(さんごうしいき)」「篆隷(てんれい)万象名義」「十住心論」「文鏡秘府論」「性霊集(しょうりょうしゅう)」など仏教に関する著書を多く残しています。その他にも、高野山に金剛峯寺を、京都に綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を建立するなどして、密教を宗派として確立させていきました。このように数々の功績が残る空海ですが、彼には多くの弟子がいました。

今回は、空海の弟子の中でも著名な「十大弟子」についてご紹介します。

空海の弟子たち

空海の肖像画
空海の肖像画です。

空海には10人の付法弟子がいました。付法弟子とは師から教えを授けられた弟子のことで、彼らは「十大弟子」と呼ばれています。

十大弟子と呼ばれる人物

空海の十大弟子の一人、真雅による『本朝真言宗伝法阿闍梨師資付法次第の事』によれば、空海の付法弟子(教えを授けた弟子)は以下の10人とされています。

  • 真済(しんぜい)
  • 真雅(しんが)
  • 実恵(じちえ/じつえ)
  • 道雄(どうゆう)
  • 円明(えんみょう)
  • 真如(しんにょ)
  • 杲隣(ごうりん)
  • 泰範(たいはん)
  • 智泉(ちせん)
  • 忠延(ちゅうえん)

彼らは釈迦の十大弟子になぞらえて、「弘法大師(空海)十大弟子」と称されました。このように呼ばれるようになったのは後のことで、慶長年間に成立したと思われる頼慶の『弘法大師十大弟子伝』に初めて登場します。

『弘法大師弟子伝』に載る人物

空海には、十大弟子以外にも多くの弟子がいました。貞享元年(1684)成立の『弘法大師弟子伝』では計20人、弟子全員の網羅をめざした天保13年(1843)の『弘法大師弟子譜』では計70人が記載されています。
『弘法大師弟子伝』では、十大弟子以外に堅恵、真泰、道昌、真紹、真然、如意尼、常暁、真際、真境、真体などの名前があり、また『弘法大師弟子譜』には、円行、最澄、光定、円澄が名を連ねています。

十大弟子にはこんな人物がいる

空海から教えを授かった十大弟子たちは、どのような人物だったのでしょうか。一人ずつスポットを当ててご紹介していきます。

真済

神護寺
現在の京都府京都市にある、神護寺です。

真済は幼いころに出家し空海に師事しました。空海から任された神護寺(高雄山寺)を運営し、一時期は遣唐使船に乗って入唐を試みたものの台風で断念したという経緯があります。それ以降は神護寺の別当として寺務に従事し、後に高雄山で隠居しました。没後は愛宕山(あたごやま)の天狗太郎坊になったという伝説が残されています。
真言宗で初めて僧官最高位の僧正位に任命されたのも真済で、当初彼はこれを辞退して空海に譲ったそうです。これに感心した文徳天皇は、空海に大僧正位を追贈し、真済に僧正位を贈ったのだとか。
詩文にも優れており、空海の漢詩文を集めて『性霊集』を編集しました。著書には、『高雄口訣』があります。

真雅

真雅は空海の弟で、故郷の讃岐国(現在の香川県)から9歳で上京し、16歳で空海に師事しました。通称は貞観寺僧正、諡号は法光大師です。
東大寺真言院を継ぎ、その後は東大寺別当、東寺長者などを務めました。清和天皇からの信任があつく、藤原良房とともに嘉祥寺西院(観寺)も建立。著作に『胎蔵頸次第』『六通貞記』などがあります。

実恵

実恵は空海に師事した後、高野山の開創を助けたり河内に観心寺を開いたりして、空海の跡を継いで日本第2の阿闍梨(あじゃり)といわれるようになりました。阿闍梨とは、弟子たちの規範となって法を教授する師匠や僧侶のことです。
実恵は東寺の伝法会(教義の経典などを講論する法会)を初めて行ったことでも知られており、教学の振興に尽くしました。通称は檜尾僧都(ひのおそうず)で、諡号は道興大師です。著作に『檜尾口決』などがあります。

道雄

道雄は、空海と同じ讃岐多度郡(現在の香川県善通寺市)の佐伯氏出身の人物です。法相宗(唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ)を修めたのち、東大寺で華厳を学び、日本華厳の第7祖となりました。その後、空海に師事して密教灌頂(かんじょう、継承者の儀式)を受けています。京都に海印寺を建立し、華厳と真言を広く世の中に広めました。弟子に基海、道義などがいます。

円明

東大寺
奈良県にある東大寺。

円明は東大寺で三論を学んだのち、空海に師事して灌頂を受けました。東大寺真言院に21人の定額僧が置かれることになった際は、実恵とともに管理者に選任。実恵の書状にも「東大の円明」といった記載があり、東大寺に住んでいたことが分かっています。承和5年(838)から5年間は、東大寺の別当も務めました。僧官の役職としては、嘉祥3年(850)7月に権律師に、同年12月には律師に任命されています。

真如

真如は平城天皇の第3皇子・高岳親王で、出家してこの名を名乗りました。大同5年(810)の「薬子の変(くすこのへん)」の際に、太子の地位を廃されています。なお、歌人として有名な在原業平は甥にあたります。仏門に入った後は東寺で暮らしながら阿闍梨となり、空海の弟子になりました。空海没後の貞観3年(861)に唐に向けて出発、入唐の3年後にはインドに向かいましたが、そのまま消息不明となっています。その後の元慶5年(881)、在唐留学僧から真如が羅越国(らえつこく)で死去したという報告があったようです。羅越国は現在のシンガポールの辺りだと推定されています。

杲隣

杲隣は、東大寺で学んだのちに空海に師事しました。神護寺の運営に上座として尽力し、天長10年(833)には空海の高野山入りに従っています。空海の没後は、静岡県に伊豆修禅寺(しゅぜんじ)を開いたとされています。

泰範

泰範は最澄の下で天台を学んでいましたが、後に高雄山寺で空海から灌頂を受けました。高野山の開創のために尽力した「空海門下四哲」の一人ともいわれています。
泰範は最澄や空海との関係が有名な人物で、古来よりその行動が注目されていたといいます。最澄から延暦寺の寺規策定を任されるほど信頼を得ていた彼がなぜその元を去ったのか、詳しいことは定かではありません。しかし、空海と出会う前からすでに最澄との間に宗教観の相違があったようです。

智泉

智泉は空海の姉の子で、甥にあたる人物です。大安寺で勤操(ごんぞう)に師事したのち、空海の入唐に従いました。初期の真言教団の中心人物の一人でもあり、京都に報恩院を開いています。
空海の肉親であり霊力や絵画に秀でていた彼は、神護寺の定額僧に選ばれるなど将来を期待されていました。ところが、わずか37歳の若さで没してしまいます。空海は弟子の中でも智泉に深い愛情を注いでいたようで、このときの悲嘆は『性霊集』からもうかがえます。

忠延

忠延は、東大寺で具足戒(僧の守るべき戒律)を受けたのち、空海から灌頂を受けました。神護寺の定額僧の名簿などから、活動拠点は神護寺だったと考えられています。『性霊集』には、空海が忠延の母の菩提(ぼだい)を供養したという記載が見られますが、それ以外の情報は残されていないようです。

弘法大師十大弟子として知られる

弘法大師の像

真言宗の開祖として著名な空海。彼には70名を超える弟子がいました。今日のように真言宗が広く認知されるようになった背景には、空海に師事した弟子たちの存在があったのですね。その中でも「十大弟子」に数えられる彼らは、空海の付法弟子として教えを広めていきました。志半ばで没した弟子や詳細がわからない弟子もいますが、彼らの広めた教義は現在も脈々と受け継がれているのです。

 

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