北条時行は、鎌倉幕府再興を掲げ足利尊氏と対立した人物です。その活躍とは裏腹に知名度はいまいちな時行ですが、このほど『魔人探偵脳噛ネウロ』『暗殺教室』などの作品で知られる漫画家・松井優征さんの新連載『逃げ上手の若君』(週刊少年ジャンプ)の主人公として取り上げられたことで話題になっています。
今回は、時行の生い立ちから鎌倉幕府の滅亡、中先代(なかせんだい)の乱での活躍と鎌倉奪還、時行はどんな存在だったかなどについてご紹介します。
生い立ちと鎌倉幕府滅亡
時行がうまれたのは鎌倉時代末期のこと。彼の生い立ちと鎌倉幕府滅亡の背景について振り返ります。
北条高時の子として生まれる
時行は得宗(北条氏惣領)の家系で、鎌倉幕府第14代執権・北条高時の次男として生まれました。生年は不明ですが、兄・北条邦時が生まれた正中2年(1325)から鎌倉幕府滅亡の元弘3年/正慶2年(1333)までのあいだと考えられています。幼名は諸説あり、『北条系図』では全嘉丸または亀寿丸とされています。
元弘3年/正慶2年(1333)5月、新田義貞による鎌倉攻めにより鎌倉幕府が滅亡。第16代執権・北条守時(赤橋守時)や父・高時ら北条一族も自害しました。兄・邦時は鎌倉を脱したものの、家臣の裏切りで処刑されています。時行は母の計らいにより鎌倉を脱し、北条氏の守護国・信濃へと落ち延びました。その後は得宗家被官(家臣)の諏訪家当主・諏訪頼重のもとで育てられ、頼重を実の父のように慕ったといいます。
北条氏の復興を目指して
鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ後醍醐天皇は、天皇中心の政治を目指して「建武の新政」を始めました。しかし、恩賞問題の不備や身分・能力を問わない人事などにより、建武政権は世の中を混乱させていきます。これにより民衆や武家の不満が高まり、政権は早い段階で破綻しつつありました。そんななか、北条一族の残党が北条氏復興を掲げて各地で挙兵。建武2年(1335)には西園寺公宗・北条泰家(高時の弟)による天皇暗殺と政権転覆を狙ったクーデターが起こります。これは失敗に終わったものの、やがて北条氏復興を図る戦いの旗頭として、信濃国にいた時行に白羽の矢が立ちました。
中先代の乱で鎌倉を奪還!
ついに北条一族の残党とともに挙兵した時行。その反乱はどのような経緯を辿ったのでしょうか?
擁立されて挙兵
建武2年(1335)7月、時行が頼重らに擁立されて挙兵すると、各地の反親政勢力が呼応し、反乱軍は大軍となりました。時行は天皇方の守護たちを次々と倒し、破竹の勢いで鎌倉へと進軍。これを阻止すべく、鎌倉将軍府の執権を務めていた足利直義(足利尊氏の弟)が迎撃しますが、時行は直義を破って鎌倉を奪回しました。
戦いに負けた直義は、尊氏の嫡男・足利義詮や鎌倉府将軍・成良親王らとともに鎌倉から逃亡します。このとき鎌倉に幽閉していた護良親王(後醍醐天皇の皇子で元征夷大将軍)を殺害していますが、これは時行らと親王が手を組むのを恐れたためだと考えられています。
足利尊氏との戦い
鎌倉を占拠した時行ですが、やがて反乱鎮圧のために京都から派遣された尊氏軍により形勢不利に陥りました。敗戦を重ねた反乱軍は瓦解し、軍記物語『太平記』によれば敗北した頼重ら43人は鎌倉・勝長寿院で自害。時行も鎌倉から追われ、その支配はわずか20日ほどで終わります。なお、頼重らは自害の際に顔の皮を剥ぎ、誰が誰だかわからない状態でした。そのため、時行も自害して果てたと思われていたようです。
その後、尊氏は帰洛せず鎌倉に留まり、戦功をあげた武将に独断で褒美を与えるなどしました。これが後醍醐天皇の逆鱗に触れ、やがて尊氏と後醍醐天皇は対立していきます。
時行の復活と鎌倉再奪還
一時は支配したものの、鎌倉からの逃亡を余儀なくされた時行。彼はやがて、鎌倉再奪還を目指して動き始めます。
南朝に帰属した時行
建武3年(1336)6月、尊氏は持明院統の光厳上皇を奉じて入京し、新たな武家政権成立を宣言。後醍醐天皇は同年11月に光明天皇に譲位しますが、京都を脱し吉野朝廷(南朝)を成立させて対抗します。こうして持明院統による北朝と、大覚寺統による南朝という、2つの皇統による南北朝時代が幕を開けました。
延元2年(1337)雲隠れしていた時行は後醍醐天皇方に帰参し、自分と父・高時の朝敵赦免とともに南朝への帰属を許可されます。かつて敵方だった南朝に帰参した理由には諸説あり、育ての親・頼重の仇を討ちたかったという説や、それまで手を結んでいた光厳上皇が尊氏と手を結んだため、これを上皇の裏切りと理解して尊氏と戦う道を選んだという説などがあるようです。
南朝の武将として転戦する
その後、時行は南朝方の武将として転戦し活躍しました。この復活劇は尊氏をはじめ世間を仰天させたといいます。時行は奥州の北畠顕家率いる征西遠征軍に従い、何度も足利軍と交戦しますが、石津の戦いにおいて顕家が戦死。総大将の敗死により征西遠征軍は瓦解し、時行は再び雲隠れすることになります。しかし、数年後の興国元年/暦応3年(1340)には、諏訪頼継(頼重の孫)とともに信濃・大徳王寺城で挙兵し、4ヶ月も籠城しました。大徳王寺城は最終的に落城しましたが、時行はここでも事前に脱出しています。
再び鎌倉を占拠するも雲隠れ
正平7年/文和元年(1352)北朝方で内紛が起こり、これをチャンスと捉えた北畠親房は京都と鎌倉の同時奪還を企み挙兵します。時行も新田義興らとともに上野国で挙兵し、鎌倉へと進撃。武蔵野合戦において足利基氏を破り鎌倉占拠に成功しますが、別で戦っていた新田義宗の敗北で形勢が不利になると鎌倉を脱出します。このときの占拠も前回同様20日程度で、逃亡した時行は再び潜伏生活に戻りました。
最後は敵に捕らえられ……
正平8年/文和2年(1353)5月、潜伏を続けていた時行は、約1年の捜索の末についに捕らえられ、鎌倉・龍ノ口で斬首されました。これにより北条氏の嫡流は断絶。時行が伊勢に渡ったという生存説の伝承では、後北条氏の祖・北条早雲が子孫ともいわれていますが、真偽は定かではありません。事実上、時行は北条得宗家最後の当主だったといえるでしょう。
時行はどんな存在だったか?
北条氏と鎌倉幕府の再興に人生を賭けた時行。彼はどのような存在だったのでしょうか?
時行が「中先代」と呼ばれる理由は?
時行が起こした反乱は「中先代の乱」と呼ばれています。「中先代」とは、先代の北条得宗家と当代の足利氏のあいだに位置していることに由来する言葉です。わずか20日間とはいえ鎌倉を支配した時行は、その功績から武家政権の支配者と同格とみなされたと考えられています。
足利尊氏は時行を恐れていた!?
尊氏は鎌倉出兵の際に征夷大将軍の地位を望み、後醍醐天皇から断られました。通説では幕府樹立を企み地位を欲したといわれていますが、近年の研究では時行を恐れたからという説もあるようです。尊氏は、鎌倉幕府再興という大義名分を掲げて挙兵した時行を恐れ、征夷大将軍という巨大権威で対抗しようとしたと考えられています。
鎌倉奪還を目指して戦い続けた
鎌倉幕府再興のために挙兵し、中先代の乱を起こした北条時行。彼は数回にわたり鎌倉を占拠しましたが、支配は20日あまりしか続かなかったことから「廿日先代(はつかせんだい)」とも呼ばれています。完璧な鎌倉奪還はできなかったものの、彼は生涯にわたり足利尊氏に対抗し続け、尊氏を恐れさせました。歴史上ではあまり目立たない存在ですが、この機会に時行の生涯に注目してみてはいかがでしょうか?
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