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【直江兼続】兜に「愛」を掲げた武将の生涯とは

【直江兼続】兜に「愛」を掲げた武将の生涯とは

2009年に大河ドラマ『天地人』の主役になったこともある直江兼続は、上杉家の忠臣であり、豊臣秀吉や徳川家康にも高く評価された知将でした。今回は、兼続の生い立ちから豊臣時代、関ヶ原の戦いでの活躍やエピソードをご紹介します。

生い立ち〜直江家相続まで

兼続の生い立ちから、直江家を相続するまでを解説します。

謎に包まれた生い立ち

兼続の生まれについては信ぴょう性の高い史料が残っておらず、諸説あります。通説では永禄3年(1560)に越後上田庄(現・新潟県南魚沼市)坂戸城下で樋口兼豊の長男として生まれたとされていますが、樋口姓は現在の新潟県南魚沼郡湯沢町に多いことから、出身は湯沢ではないかとする説もあります。幼名は「与六」です。

また、父である兼豊についてもその身分について見解が分かれています。米沢藩の記録書によれば「長尾政景の家老であり、上田長尾氏の執事職であった」とありますが、江戸時代中期の儒学者・新井白石が記した「藩翰譜(はんかんふ)」という家系書によれば、薪や炭を扱う役人だったとされています。ただし、「藩翰譜」は史料を当たったものではなく、伝聞と白石自身の主観が強いという指摘もあり、この記述は疑問視されています。

母は上杉家重臣・直江景綱の妹だったとも、信濃国(現・長野県と岐阜県の一部)の豪族・泉重歳の娘だったとも、どちらでもないとする説もあり、はっきりしません。とはいえ、重臣の妹や豪族の娘だったとする場合、兼豊が薪や炭を扱う役人だったとすると身分がつり合わないため、この点でも兼豊の身分が低かったとする説には疑問が残ります。

上杉家の近習となり、直江家を相続する

上杉謙信の肖像です。

永禄7年(1564)、上田長尾家の当主であり、坂戸城主でもあった政景が死去すると、政景の子・長尾顕景(あきかげ)は9歳で上杉謙信の養子となります。4歳の与六もこれに伴い、顕景の小姓・近習として謙信の春日山城へ入りました。ただしこれも通説であり、謙信の実姉で顕景の母でもある仙桃院に望まれ、幼い頃から顕景に近侍していた、という説もあります。

謙信には家督を継ぐ実子がいなかったため、顕景の他に北条氏政の弟・三郎を養子に迎えていましたが、これが後に家督争いの原因となります。なお、顕景は天正3年(1575)に名を景勝と改め、三郎は養子に迎えられた際に名を景虎と改めています。

天正6年(1578)に謙信が急死すると、景勝と景虎の間で家督争いが勃発しました(御館の乱)。家督争いは景勝が勝利し、上杉家は景勝が相続しました。この乱の後処理あたりから、景勝への取次など兼続が側近として活動している様子が史料に記載され始めます。

天正9年(1581)、御館の乱の恩賞を巡る争いから景勝の側近であった直江信綱が殺害されてしまいます。直江家には子どもがいなかったため、未亡人となった信綱の妻・お船(おせん)と兼続が結婚し、兼続が直江家を継ぐことで直江家の断絶を防ぎました。その翌年、本能寺の変で織田信長が死去。時代は豊臣政権へ移行します。

豊臣時代〜関ヶ原の戦い

豊臣政権の時代から、関ヶ原の戦いでの兼続についてご紹介します。

豊臣時代の兼続

景勝の腹心は兼続の他に狩野秀治がいましたが、天正12年(1584)に病に倒れて以降は、上杉家に関する内外の取次、執政のほとんどを兼続が行うようになります。しかし、その後も不満分子が反乱を起こすなど、越後国自体が疲弊してしまいます。その状況を打開するために、兼続は新田開発に力を入れるとともに、特産品である青苧(あおそ、衣類の原料)の増産に注力し、莫大な利益を得ることに成功しました。

兼続は秀吉からも信頼を得ていて、「伏見城」の惣構堀普請や、改築のための伏見舟入奉行に命じられていました。信頼の厚さは秀吉の「天下の政治を任せられるのは数人しかいないが、そのうちの一人が直江兼続」という言葉にも表れています。

徳川家康に突きつけた「直江状」

直江状(東京大学総合図書館所蔵承応三年刊本)より抜粋

秀吉亡き後、後継者である豊臣秀頼はまだ5歳だったため、政治は「五大老」と「五奉行」の合議制で行われていました。五大老の筆頭だったのが徳川家康ですが、景勝も五大老のひとりとして政治に参加。そして、家康が幅をきかせるようになったことに反発したのが五奉行のひとり、石田三成でした。

景勝は家康の横行に対する抑止力となっていましたが、反面、お互いに不信感を抱く相手でもありました。そんな中、越後の領主、堀秀治が家康に対し「上杉家は謀反を企てているらしい」と上杉家をおとしめる情報を伝え、家康は景勝に上洛と申し開きを要求。これに対して兼続が毅然と反論したのが「直江状」です。以下に要約を記載します。

「景勝が謀反を企てている、という者こそが怪しいのだから、先にその者を調べるべきだ。ろくに調べもせず、簡単に讒言(ざんげん)を聞き入れる家康様の方にこそ、やましいところがあるのではありませんか」

「上杉家が武器を集めているから謀反を企てていると言いますが、上方の武士が茶器などを集めるように、田舎武士は鉄砲や弓矢を集めることが趣味なのです」

「そもそも、讒言した者は上杉家を出奔した者。裏切り者は彼の者の方なのです。景勝と家康様のどちらが正しいのか、明らかではありませんか」

直江状は本物か偽物かの論争があるほど、史料として決定的なものではありません。そのため、本当に兼続が書いたものなのかは定かではありませんが、家康に兼続が書状を送り、それが家康を激怒させた、というのは事実だといわれています。

関ヶ原での敗戦から晩年について

関ヶ原での敗戦から、晩年の兼続についてご紹介します。

家康軍に敗北

三成と家康が激突した関ヶ原の戦いでは、家康が勝利をおさめました。兼続はこのとき、景勝とともに三成側(西軍)についています。西軍の敗北を知った兼続は上杉軍を撤退させるべく、自らしんがりを務め、無事上杉軍を撤退させることに成功。撤退戦での働きは、後に家康も称賛するほどだったといわれています。

上杉家は敗北後、上洛して家康に謝罪することで会津120万石から米沢30万石へ所領を減らし、移動する処分となりました。このとき、兼続は徳川家に忠誠を誓い、重光と改名しています。石高が減ったことで、兼続は国力増強に向けさらなる新田開発に注力。30万石だった米沢藩の石高を約2倍の50万石以上へと成長させました。

他にも、氾濫しやすい最上川の上流に大きな堤防を築くなど治水事業に力を入れて農業を行いやすくしたり、城下町の整備や鉱山開発、教育環境の整備を行うなど、政治家としての手腕をいかんなく発揮します。

晩年の兼続

関ヶ原の戦い以降、兼続は上杉家と徳川家の関係改善に努め、家康の重臣でもあった本多正信の次男である本田政重を娘の婿養子として迎え入れました。しかし、政重との養子縁組はのちに解消され、直江家には他に男子がいなかったことから、兼続の死後、直江家は断絶することとなります。

兜に「愛」を掲げた理由とは?

兼続は幼い頃から才気煥発で眉目秀麗、武道にも優れていたとされています。また、兜に「愛」の文字をあしらっていました。景勝への忠心などを見ると間違いでもありませんが、当時「愛」の文字は現代でいう愛の意味では使われておらず、ネガティブな意味合いが強いものでした。そのため、兜に「愛」とあしらっていた理由として、以下2つの説が有力です。

「愛染明王」由来説

謙信が自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じて「毘」の文字を掲げたように、弓を持ち軍神としても知られる愛染明王の文字を掲げたのだ、とされています。

「愛宕権現」由来説

謙信が戦の際に、新潟県上越市にある愛宕神社へ戦勝祈願に訪れていたため、とされています。愛宕権現は各地に分霊され、軍神として信仰されたことから、各地の愛宕神社はそれぞれの土地を治める武将に武運をもたらすとして庇護されていました。

生涯にわたり上杉家を守った忠臣

兼続は出自に諸説ありますが、幼い頃から景勝の忠臣であったことは間違いないようです。秀治の死後は上杉家の内外の取次をひとりで行い、度々所領の立て直しにも成功。関ヶ原での敗戦後は積極的に徳川家との関係改善に努めるなど政治的手腕も発揮しています。美貌にも才気にも恵まれたとされていますが、私欲に走らず参謀としてその手腕を活かしたことが、今もなお愛されている理由なのかもしれません。

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